活字中毒R。
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2024-03-29T21:07:18+01:00
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林修先生、「キラキラネーム」を語る。 new
2013-07-17T00:00:00+01:00
2013-07-17T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20130717
『いつやるか? 今でしょ!』(林修著/宝島社)より。<br><br>(『東進ハイスクール』のカリスマ講師・林修さんが2012年に書かれた本の一部です)<br><br>【ずいぶん前に。高校の先生と現代文の指導について話していたときのことです。生徒の成績表を見ながら、あれこれ話していたのですが、そのとき妙なことに気づきました。<br> 上位の生徒は「明子」、「良子」、「宏美」など普通に読める名前が圧倒的で、特に「子」がつく名前が多いのです。一方、下位になればなるほど「これなんと読むんですか?」と聞かなければならないような「難読」名が増えるのです。かなりの数のクラスがありましたが、すべてそうでした。<br>「こういう難しい名前の生徒の親は、クレームも多いんですよ」<br> 高校の先生は、そうもおっしゃっていました。僕は、これは単なる偶然ではないと思っています。<br> 親は自分の子どもが立派な人間になることを願って名前をつけます。あくまでも究極の目的は子どもが素晴らしい人間に成長することであって、名前はその過程において、なくてはならないものではありますが、1つの「道具」であることも事実なのです。<br> 人の名前を読み間違えることは失礼なことです。しかし、「普通」に読めないような名前は、やはり読めないのです。そういう名前をつけられた子どもは、誤読されて嫌な思いをする、あるいは、いちいち説明しなければならない煩わしさを一生抱えて生きていくことになるのです。だから「本質」がわかっている親は、「普通」の名前をつけるのです。だから「本質」がわかっている親は、「普通」の名前をつけるのです。こだわるべきは名前ではなく、その子のあり方そのものなんです。<br> 全員名前に「子」がつく、優秀な4姉妹のお母さんと偶然お話ししたとき、<br>「谷崎潤一郎の『細雪』みたいですね」<br> と言ったところ、<br>「すぐに女の子だってわかるからいいでしょう?」<br> と、そのお母さんはにこやかに答えられました。その4人がすべて、単に成績が優秀というだけでなく、きちんとしつけられた「お嬢さん」であったことは、偶然ではないのです。「本質」をしっかり理解されたお母さんが、そしてご家族が、愛情を込めて育てられた、必然の結果だったのです。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br> 長年、「優秀な生徒」(そしてたぶん、そうでない生徒)に接し続けてきた林先生の「命名論」。<br> キラキラネーム(ネットスラングでは『DQNネーム』とも呼ばれます)については、批判の声が多い一方で、僕が子どもの頃である30年前と比べると、やっぱり増えているし、その「難読度」も上がっているように思われます。<br> 小児科の救急外来を受診する患者さんの名前をみると「この子、なんて読むんだ?」と悩むことも少なくありません。<br> もちろん、ここで紹介している林先生の話も僕の印象も「統計学的に確認した」わけではないのですけど。<br><br> 自分が子どものときのことを思い返してみると、名前を読み間違えられたり、女の子と思われたりするというのは、けっこう嫌なものではありました。<br> 「次、○○!」<br>「先生、それ××って読むんです……」<br>「そうか、ごめんごめん……」<br>こういうやりとりって、相手に悪気がなくても(あるいは、悪気がないだけに)、ボディブローのようにじわじわ効いてくるんですよね。<br>初対面の人に名前を呼ばれるたびに、ちょっと「警戒」してしまうし。<br> 名前を間違われるのはイヤだし、それを相手に指摘する際に流れる、ちょっと気まずい空気もつらい。<br> とはいえ、子供心には「普通すぎる名前もイヤ」だったりするのですけど。<br><br><br> 親は、つい自分の思い入れをこめて、「特別な名前」をつけたくなるけれども、子供にとっての「利便性」を考えると、「キラキラネーム」はデメリットが大きいのです。<br> 思い入れを捨てて、「記号」として考えれば「ありきたりな名前」のほうが、面倒なことは少なくなります。<br> そもそも、「キラキラネーム」は「ちょっと心配な家庭環境に置かれていることのサイン」だと見なされがちですし。<br><br> 林先生は、大学院をやめるときに東大の総長が「彼がやめるのは日本の損失だ」と言ったという超優秀な予備校での同僚と、こんな話をしたことがあるそうです。<br><br>【「単なる分類語なんだから、林一番、二番、三番で十分だよ」<br> 僕がそう言うと彼は、<br>「それさえ必要ないなぁ。僕はA328でかまいませんよ」】<br><br> 「そんな特別な人間にはなれない」からこそ、名前にこだわってしまう、こだわらずにはいられないのかもしれませんが……<br><br>
アメリカの玩具メーカーの重役全員に爆笑された「リカちゃん」
2013-05-31T00:00:00+01:00
2013-05-31T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20130531
『人生ゲーム 人生は1マス5年で考えよう』(佐藤安太著・マイナビ)より。 <br><br>【私は、リカちゃんを米国でも発売しようとして、マテル社に話を持ち込んだことがあります。しかし、そこで玩具というのは、それぞれの国の文化に深く根ざしているのだということを思い知らされます。マテル社の重役が並ぶ前で、私はリカちゃんの実物を出して、特徴などを説明しました。<br>「リカちゃんにはわたるくんやいづみちゃんという友だちの人形もあります」<br> マテル社の重役たちは、みな怪訝な顔をしています。<br>「さらに、リカちゃんにはお母さんとお父さんの人形もあります」<br> リカちゃんママとパパの人形を見せると、重役たちは目を丸くして驚いています。<br> そして、どなたかが尋ねました。「これは日本で売れているのか?」と。「大ヒットです」と答えると、重役全員が腹を抱えて爆笑しだしたのです。「人形にパパとママがいるって? そんな遊びをする子はアメリカにはいない」と言うのです。<br> 後でどういうことかがよくわかりました。人生ゲームの話のところでも少し触れましたが、日本とアメリカでは子どもに対する文化がまったく違っていたのです。日本の社会では、子どもは貴い存在で、親はできれば子どもはいつまで経っても子どもであってほしいと願っています。お子さんが成長して、立派な大人になり、家庭を構えた後でも、親はついついお小遣いを渡したくなってしまいます。親にとって子どもは永遠に子どもなのです。<br> しかし、米国の社会では、子どもは「できるだけ早く大人になるべき存在」です。最初から子どもを”未成熟な大人”として見ているのです。<br> ですから、親は子供がいち早く自立することがうれしい。幼いときも、自分でトイレに行けるようになるとうれしい。自分で着替えができるようになるとうれしい。自分で歯磨きができるようになるとうれしい。高校生になると、恋人を作って(健全な)デートをするようになるとうれしい、社会活動に参加するようになるとうれしい。卒業して、仕事を始め、経済的に自立をするようになるとうれしい。米国の親は、子どもがひとつひとつ大人になっていくことに喜びを感じるのです。<br> 一般的に、身体が大人と同じ大きさになる高校生のころには、社会全体が子どもを大人として扱い、それに伴う責任も求めるようになっていきます。<br> 子どもがリカちゃんで遊ぶときは、リカちゃんに自分自身を投影します。そこにお父さん、お母さんの人形が登場するというのはありえないというのが米国人の感覚です。米国の子どもたちが、ごっこ遊びをするときは、子どもたちだけで大人の社会を模した遊びをするべきという感覚なのです。<br> 米国ではバービー人形に人気があることがよくわかりました。女の子たちは、大人の女性であるバービーに美しい洋服を着せて、自分がいずれそうなるべき姿をそこに見ていたのです。リカちゃんのような等身大の着せ替え人形は、米国人から見ると、成長を止めてしまい、いつまでも子どもの状態に留まらせるよくない玩具という印象を持たれてしまうのです。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br> ダッコちゃん、リカちゃん、人生ゲーム、ミクロマン、チョロQ、トランスフォーマーなど、数多くの定番玩具を世に送り出したタカラの創業者、佐藤安太さんの自叙伝。佐藤さんは1924年生まれの現在89歳で、まさに「戦後の日本のおもちゃの歴史をつくってきた人」です。<br><br> 僕の感覚からいうと、リカちゃんに比べて、バービーは「かわいくない」のです。<br> 周りの女の子たちも、「なんでアメリカでは、あんなケバい人形がウケるのだろう?」と首をひねっていた記憶があります。<br> まあ、「かわいいと感じるものの違い」なのかな、ということで、なんとなく結論づけていたのですが……<br><br> この佐藤さんの話を読んでみると、「なぜ、かわいくないバービーが人気だったのか?」という発想そのものが、どうも間違っていたみたいです。<br> アメリカの親の感覚からすると、「おもちゃとは、子どもを成長させるためのものでなくてはならない」のですね。<br> だから、子どもにとって「現状維持」を促進することにしかならない、かわいいリカちゃんは、むしろ「害悪」だと感じるのです。<br> リカちゃんによる「ごっこ遊び」だって、それなりに社会性を向上させるのではないか、と僕は思うのですが、一般的なアメリカ人は、「促成栽培」を望んでいるのです。<br><br><br> しかし、この話を読んでいると、たしかに、僕も含めて、日本人の親は、子どもに対して、順調な成長を願うのと同時に「子どもらしくあってほしい」「子どものままでいてほしい」という気持ちがあることを再認識させられます。<br> 子どもの「子どもらしい悪戯」に、怒りつつも、ちょっと安心してしまう。<br> そして、子どもが成長することに「寂しさ」すら感じてしまうこともあるのです。<br> もちろん、全く成長してくれなかったら、それはそれで困るには決まっているのですが……<br><br><br> これはもう、どちらが正しいか、というのではなく、文化の違いだとしか言いようがありません。<br> 日本では、子どもと大人の社会が比較的クリアに分かれているけれど、アメリカでは、子どもは「未熟な大人」なのです。<br><br> とはいえ、日本の父親としては、バービー人形みたいになってほしいかと問われると、やっぱりちょっと悩ましいところではありますね。<br><br>
フェイスブックで「等しい自分を伝えること」の難しさ
2013-05-01T00:00:00+01:00
2013-05-01T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20130501
『ダメをみがく〜”女子”の呪いを解く方法』(紀伊國屋書店)より。<br><br>(深澤真紀さんと津村記久子さんとの対談集の一部です)<br><br>【深澤真紀:フェイスブックは非常によくできているけど、あれが大変なのは、実名なので、「濃淡があるいろんな人間関係の相手に、等しい自分を伝えなきゃいけない」ってこと。仕事の友だちも、幼稚園の友だちも、大学の友だちも、すべてに同じ情報や感情を伝えるのは無理じゃないですか。それぞれの共有しているものが違うから。<br> 私もフェイスブックは使ってるけど、交流はグループごとですね。小・中学校のグループ、大学のサークルのグループ、仕事のグループ……って。そのグループの中なら、たとえば大学のサークルグループで、「村上春樹ってうちのサークルの先輩なんだね」って投げかけられる。それは仕事のグループとか小中学校のグループには関係ないですから。だから、フェイスブックがむずかしいのは、実名ですべての人間関係を均質化して、全員に同じ自分を等しく伝えなくちゃいけないということですね。誰もが「同じ私」を知ったら逃げ場がなくなると思うんです。人間関係って平等じゃないからね。大人になるって人間を上手に差別することだと思うんです。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br>「平等じゃない」とか「差別する」なんて言葉だけを採り上げてみると、なんだか感じ悪い話ではあるのですが、現実問題として、人と接する場合、相手によって「見せる面」を使いわけている人がほとんどなんですよね。<br>仕事仲間には「いまの仕事の顔」をみせるし、中学校の同級生とは「中学校時代の思い出」を語る。<br>家で野球中継をみながら、贔屓のチームの選手が三振したときに罵声を浴びせている姿を見せられても、「どうリアクションすればいいんだ」って話ですし。<br><br>「匿名での罵り合い」に疲れていたとき、「知りあいと、素の自分で接することができるフェイスブック」は、なんだかとても素晴らしいもののように見えました。<br>しかしながら、実際に使ってみると僕の場合は「素の自分」とは何か?という問題に、かえって直面してしまったのです。<br> 「フェイスブックって、食事と旅行と子供の話題ばかり」と揶揄されることが少なくないのですが、ある程度の「友だち」がいると、「自分をアピールすること」よりも「自分を誤解されたり、嫌われたりするリスクを冒したくない」という気分になるのです。<br> 「ここには、自分の『友だち』しかいない」と思えばなおさら。<br> フェイスブックを自分の「ショーケース」にできるような立場の人は、あえて、かなり思い切ったことを書くことにもメリットがあるのでしょうけど。<br><br> 人というのは自分で思っている以上に自分の「背景」や「立場」で物事をみてしまいがちです。<br> いつも平日にしか休みがとれない人が平日に出かけていても「僕は働いているのに、羨ましい身分だなあ」なんて、つい考えてしまいますし、何気なくアップロードした子供の写真や豪華な食事の写真も「家族自慢」「贅沢自慢」に見られる可能性もあります。<br> <br> 「友だち全員に同じ内容を公開」していても、これまで、あるいは現在の関係や背景によって、受け止められ方は変わってしまう。<br> とはいえ、あまりにも個別に情報統制しようと思うと、何のためのフェイスブックなのか、ということになってしまう。<br> それなら、知らせたい相手に、直接メールしたほうが「安全」だろう、と。<br><br> フェイスブックというのは「実名だからこそ、相手が友だちだからこその難しさ」があるんですよね。<br> twitterであれば、面識のない面倒な相手は「ブロック」すればいいけれど、フェイスブックでは、実生活とリンクしているから、なかなかそういうわけにもいかない。<br><br> 「実名には、実名の難しさがある」のは間違いありません。<br> 実名=その人のホンネ、みたいに思われがちですしね。<br> 本当は「ホンネ」だって、相手によって違うものなのに。<br>
「それでも、勇気を持てないのなら僕に言ってくれ」
2013-04-03T00:00:00+01:00
2013-04-03T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20130403
『逆風に立つ 松井秀喜の美しい生き方』(伊集院静著・角川書店)より。<br><br>【私の小説には時々、中学生くらいの年頃の少年が主人公の物語があります。その関係で、日本中で問題になっている学校でのいじめについて意見を求められたり、シンポジウムに参加することがあります。そんな時、いじめをなくすための本に、松井選手がメッセージを送っているのを見つけたことがあります。そのメッセージを紹介します。<br><br><br><br> いじめられているみんなへ<br><br> 神様だって、いつまでも君を見捨てはしないはずだ。<br> 今の苦しみに勇気を持って立ち向かおうじゃないか。<br> 自分がいじめられている事を、親や先生や友達に言うのは嫌かもしれない。<br> でも、頑張って相談すれば、必ず良い方向に行くと思う。<br> 一番勇気のないのは、自分の人生をまっとうしない事だ。<br> 神様は君がこの世で生きてけると判断したから君は今ここで生きているんだ。<br> それでも、勇気を持てないのなら僕に言ってくれ。<br> 手紙でもいいから僕に相談してほしい。<br> 何か君の為にできる事があれば、一緒に頑張るよ。<br> 君のこれからの素晴らしい人生の為に。<br><br><br> 松井秀喜<br><br> 「第三回人権メッセージ展 たいせつな宝物」<br> (神奈川県人権啓発推進会議 1999年3月発行)<br><br> このメッセージに手紙をくれた子供もいた、と松井選手は話してくれた。手紙の返事もちゃんと書いたそうだ。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br> この「私の小説」の「私」は、著者の伊集院静さんのことです。<br> いじめに関する問題は、僕が物心ついてからずっと、事件が起こって議論が行われ、しばらくすると他の新しいニュースで下火になり……の繰り返し。<br> 正直、いまの学校の現場がどうなっているかはわからないのだけれども、少なくとも「いじめのない社会」の実現には程遠いようです。<br> これはもう「人間という種の負の特性」みたいなものなのかな、という気分にすらなります。<br><br> この本は、松井選手との長年にわたって交流がある、作家・伊集院静さんが書かれたものなのです。<br> そのなかで、松井選手は、匿名で行ってきたものも含めて、さまざまな慈善活動を行ってきたことが紹介されています。<br> 松井選手は、もちろん野球選手として素晴らしい活躍をした人なのですが、もしかしたら野球選手として以上に、ひとりの人間として、大きな魅力を持っている人なんですよね。<br><br> この松井選手からの「いじめられている子どもたちへのメッセージ」、一読してみると、そんなに珍しいことが書いてあるわけではないように思われます。<br> でも、僕はこのメッセージの最後に「それでも、勇気を持てないのなら僕に言ってくれ。手紙でもいいから僕に相談してほしい。何か君の為にできる事があれば、一緒に頑張るよ」と書いてあるのを読んで、「ああ、松井選手はすごいな」と感動してしまいました。<br>「いじめられたら、親や先生や友達などに恐れずに相談してください」って言う大人は多い。<br>僕だって、もしこういうメッセージを求められたら、そんなふうに言うと思う。<br>でも、松井選手は「『僕に』言ってくれ」というメッセージを送ったのです。<br><br>会ったこともない、よく知らない子どもに、何ができる?<br>僕も、たしかにそう思う。<br>たぶん、こういうメッセージを求められた大人は、ほとんどみんなそう思うはず。<br>ところが、この松井選手のメッセージを読むと、多くの「有識者からの提言」みたいなものって、所詮、「いじめられている子どもの現実に対して、他人事としてみているだけ」なのではないか、という気がしてきたのです。もちろん、自戒をこめて。<br><br>松井選手はスーパースターだし、実際に子どもに勇気を与える力があるのは確かでしょう。<br>とはいえ、多忙なはずの松井選手にとって、「僕に言ってくれ」というのは、本当に相談が押し寄せてきた場合、かなりの負担になるはずです。<br>負担のわりには、メリットは少ないと思う。<br><br>にもかかわらず、松井選手は、自分が「子どもたちに勇気を与えられる人間」であることを受け入れ、それを子どもたちのために活かそうと考えていたのです。<br>「俺だって人間なんだ!」って羽目を外して言い訳をする「スター」はたくさんいます。<br>それに比べて、松井選手は、自分が「スター」であるからこそ、みんなの幸せのために尽くそうとしています。<br><br><br>松井秀喜さんが、長嶋茂雄さんと同時に「国民栄誉賞」を受賞することに、「長嶋さんはともかく、松井さんにその資格があるの?」という声は少なくないようです。<br>僕は、松井秀喜さんにも、その「資格」は十分にあると思うんですよ。<br>むしろ、松井さんのような人にこそ、感謝の気持ちを伝えるべきではないのか、と。<br><br>僕は巨人ファンではありませんが、松井さんのことは大好きです。<br>これからもずっと、こういう松井秀喜でありつづけてほしいと願っています。<br>
『岩波国語辞典』には載らない言葉
2013-01-21T00:00:00+01:00
2013-01-21T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20130121
『ユリイカ』(青土社)2012年3月号の「特集・辞書の世界」より。<br><br>(辞書編集者を描いた小説『舟を編む』がベストセラーとなった三浦しをんさんへのインタビュー「『舟を編む』が出航するまで」の一部です。聞き手は速水健朗さん)<br><br>【速水健朗:作中の松本先生との会話で、子どもの頃みんなやりがちなHな単語ばかり引く話が出てきます。余談ですけどプッチモニのデビュー曲「ちょこっとLOVE」(1999年)で「恋」という字を辞書で引くっていうのがありまして、当時のつんくの作詞はキレキレだったんですけど、そこに好きなひとの名前を書き加えるという歌詞なんですね。<br><br>三浦しをん:いいなあ(笑)。<br><br>速水:さらに秀逸なのが二番で「愛」という字を引こうとすると、家族の顔が先に浮かんでくると言うんです。そこがいかにも中学生の幼い恋愛っていう。みんな物心ついて辞書とか引き出すのは中学生くらいで、そうするとやっぱり「恋」とか「愛」とか引くよねというのがリアルに書けていた。<br><br>三浦:すごく肯ける話ですね。私も性的な言葉を引きまくってましたから(笑)。<br><br>速水:たとえばどういう単語ですか?<br><br>三浦:ちょっと口では言えないような言葉を(笑)。<br><br>速水:作中で書かれていたように、「ちんちん」が載っていなかったらがっかりしたりして(笑)。<br><br>三浦:それはもうがっかりですよ(笑)。面白いのが、『岩波国語辞典』は頑として性的な語は載せていないんです。編集者のひとに半ばキレ気味に「なんで載せないんですか!」と言ったら、「まあ、どうしてもそれを知りたかったら『広辞苑』を引いていただくとして……」と言われたので、そういう役割分担があるんでしょうね。<br><br>速水:なるほど。一方、有名な『新明解』のように、「恋愛」についてかなりアグレッシブな語釈を採用しているものもありますよね。作中でも「恋愛」をめぐり、それが異性間に限定されるのはおかしい云々というエピソードがありますけど、ちゃんと辞書の進化というかバリエーションがどう出来るのかということを描いていますよね。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br> 昨年の『本屋大賞』を受賞した『舟を編む』。<br> 今年の4月には、映画も公開されるそうです。<br> 著者の三浦しをんさんは、「辞書をつくっている人たち」を綿密に取材して、この作品を書かれたそうで、この特集号に辞書関係者が寄せている文章を読むと、「ああ、こういう『言葉屁の興味が尽きない、粘り強いひとたち』が辞書をつくってきたのだなあ」と感慨深いものがありました。<br> 「自分が生きているうちに、完成したものが見られるかどうかわからないような、時間がかかる膨大な仕事」なんですよね、辞書編纂って。<br><br> 『ちょこっとLOVE』懐かしいなあ、たしかに、あの頃の『モーニング娘。』は凄い勢いがあったよな、あれからもう14年も経っているのか(だって辻ちゃんがお母さんタレントになっているんだから!)と速水さんの述懐を読みながら考えていたのですが、三浦さんの「『岩波国語辞典』には、性的な言葉は載っていない」という発言に僕は驚いてしまいました。<br> みんな考えることは似たようなもので、学生時代、学校の辞書を引いてみると、「性的な言葉」のページには、きちんと折り目がついていたり、赤線が引いてあったりした経験を持つ人は、少なくないはず。<br> 「なるべく多くの、使われている言葉を収録する」ことを重視するはずの国語辞典、そのなかでも「名門」といえる『岩波国語辞典』に、そんな「こだわり」があったんですね……<br> 「広辞苑で調べてください」という関係者の発言からすると、「なにかの手違いで抜けてしまった」わけではなくて、意図的に「性的な言葉は排除している」ということなのでしょう。<br> でも、それってどうしてなのだろう?<br> 小さな子供も使うから、と考えた編集者たちの「モラル」の問題なのか、偉い人の「載せるな!」という鶴の一声があったのか。<br> 辞書編集者であれば、性的であれ、よく使われている言葉であれば、「排除」しないのではないか、とも思うのですが……<br><br> 今後、いつの日か、『岩波国語辞典』が「性的に解放される」日が来るのでしょうか?<br> もしかしたら、本当に、同じ岩波書店の『広辞苑』を売りたいだけ?<br>
あるファミリーレストランのウェイトレスの「もう一つ上のランクのサービス」
2012-12-25T00:00:00+01:00
2012-12-25T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20121225
『世界一のサービス』(下野隆祥著/PHP新書)より。<br><br>【どんな価格帯のレストランであろうと、どんな業態の店であろうと、サービスマンの思い一つでサービスは変わります。「もう一つ上のランクのサービスを実践しよう」と思うサービスマンがいれば、その店のサービスは向上し、雰囲気もよくなるはずです。<br> たとえば、かつてよく使っていたファミリーレストランに、こんなウエイトレスの子がいました。私はたまに数人で連れだってその店に行ったのですが、何人で行っても、持ってくる料理を間違えないでサーブできるのです。<br> ファミレスですから、オーダーをとる時に「繰り返させていただきます。○○が一つ、××が二つ」と確認していきます。そこまでは他のウエイトレスと一緒なのですが、そうやってオーダーをとっても、普通のウエイトレスは料理を持ってきた時に「○○はどなたですか?」と聞いてきます。オーダーをとる子とサーブするのが別の子なら仕方ないと思うのですが、同じウエイトレスでも同じように聞いてきます。せめてオーダー用紙に席順を書き込むなりして、「どのお客様にはどの料理」と覚えていてほしいものです。<br> ところがそのファミレスでは、一人のウエイトレスだけは、そんな確認はせずに「おまちどおさまでした」という笑顔と共に、間違えずに一人一人の客の前に料理を置いていくのです。<br> 客としたら、それだけでも何か嬉しいものです。すでに書きましたが、お客様が嫌がるのは放置されてしまうこと。無視されること。逆に最も嬉しいのは、「覚えていてもらえること」。<br> ファミレスとはいえ、いやファミレスだからこそ、ウエイトレスがオーダーを性格に覚えていたら、それだけで一つのサービスになり得ます。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br> 著者はフランスの超有名レストラン『ロブション』の日本第一号店の初代総支配人などを歴任してきた「サービスのプロ中のプロ」。<br> これを読みながら僕が考えていたのは、「もしファミレスでこんなサービスをしてくれる店員さんがいたとして、自分は気がつくだろうか?」ということでした。<br><br> 著者は、伊丹十三監督の『タンポポ』という映画のなかで、主人公の女性が「満員の客のオーダーを一瞬で記憶する場面があった:ことを紹介し、「伊丹監督も、この才が客を本当に喜ばせることを知っていた」と推測しています。<br><br> この「オーダーをちゃんと記憶してくれる」というのは、「店に入って黙って座っていると、注文を取りにきてもらえなかったり、滑舌が悪いせいか、オーダーを聞き返されて気まずい思いをしたりしがちな僕にとっては、すごくありがたいサービスだと思うんですよ。<br><br> 「誰が何を注文したか」をちゃんと覚えておいてくれるというのは、こういう「サービスのプロ」じゃなければ、なかなかその凄さを理解してもらえないような気がします。<br> 「○○はどなたですか?」が当たり前になりすぎているから。<br><br> これを実行するには、伝票にちょっとメモをしておくとか、「ひと手間」で済むことのはずなのですが、そこまでファミレスのお客さんは要求していないという判断なのか、それとも、「そうやって覚えたりメモをとる手間とか間違えるリスクを考えると、運んできたときに確認したほうが無難だ」というマニュアルになっているのかもしれません。<br><br> ただ、働いている人の意識としては、こういうふうに「向上心を持って仕事をしている人」のほうが、長い目でみれば、実力をつけていくのだろうな、とは思います。<br> 「マニュアル通り」にやればいいようにみえるファミレスのウェイトレスという仕事にも、こんな「差別化の余地」があるのだな、と感心してしまいました。<br>
Amazonの新しい特許「おばさんからの贈り物はすべて交換する」
2012-12-07T00:00:00+01:00
2012-12-07T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20121207
『ワンクリック』(リチャード・ブラント著/井口耕二訳/日経BP社)より。<br><br>(Amazonの創業者であるジェフ・ベゾスの半生記の一部です)<br><br>【アマゾンがイノベーションや特許申請をやめる日はこないだろう。2010年12月には、また新しい特許のうわさが流れた。アマゾン経由で贈り物をもらった人が、商品が配送される前に返品できるようにできるシステムだ。特許申請書によると、おばさんがいつもいらないものを贈ってくるといった場合に便利なように、「おばさんからの贈り物はすべて交換する」というオプションを用意するというのだ(特許申請書には、架空であるはずの親戚の名前が書かれている)。このシステムが実装されれば、親切な親戚がギフトを買ってくれたとき、ギフトが発送される前に受け手が把握し、自分が欲しいものに交換できるというわけだ。このほかにも、「ウールの洋服はいらない」「あるおばさんからの贈り物は、確認後、すべてギフト券に交換する」などさまざまなルールを「ギフト交換ルールウィザード」から適用できる。この特許も、ベゾスのみが発明家となっている。<br> もちろん、エチケットにうるさい人から見れば、これはぞっとするほど醜悪なシステムだ。「贈り物の精神を踏みにじるアイデアです」と、エチケットの権威、エミリー・ポストの玄孫でエミリー・ポスト協会のスポークスマンでもあるアンナ・ポストは指摘している。これに対してベゾスは、送り手が気分を害するかどうかは別として、こうしたほうが贈り物の世界がよくなると考え、「受け取り手に気に入られないかもしれないと心配し、送り手がギフトの鑑定に慎重になることも考えられる」と従来の方法にも問題があることを特許申請書で指摘している。<br> いずれにせよこれは、こうるさい受け取り手を喜ばせるだけでない。アマゾンにとっては何百万ドルものコスト削減になるアイデアだ。ギフトが返品されると、倉庫で作業員が開梱して返品されたギフトを棚に戻し、新しいギフトを包んで梱包し、発送しなければならない。また、他人が驚くようなイノベーションで一歩先をゆくというベゾスの姿勢にも合致している。この姿勢は、いままで、アマゾンにとってプラスに働くことが多かった。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br> 僕はこれを読みながら、スタジオジブリの『魔女の宅急便』の、ある場面を思い出していました。<br> おばあちゃんが孫のためにつくった「ニシンのパイ」を、魔女のキキが一生懸命届けるのですが、孫娘は「このパイ、嫌いなのよね」と、ありがた迷惑な様子で受け取る場面。<br><br> 僕は『魔女の宅急便』を見るたびに、おばあちゃんの気持ちが届かないことが悲しくなるのですが、現実的に考えると、ああいうことは、少なからず起きているはずです。<br> おじいちゃん、おばあちゃんから、あるいは、親からの「心のこもったプレゼント」というのは、若い世代からすれば、「なんかズレている」「時代おくれ」「どうせだったら、現金のほうがよかったのに」というケースは、少なくないんですよね。<br> とはいえ、プレゼントというのは、「こんなものをあげたい」という贈る側の気持ちやセンスが問われるものではありますし、「現金では、なんだか殺伐としている」と考える人も少なくないはずです。<br> 「お金であげると、あんまり役に立つことに使われないんじゃないか」と危惧する場合もあるでしょうし。<br><br> それにしても、このジェフ・ベゾスの「新しい贈り物のシステム」の、よく言えば「合理性」、悪く言えば「身も蓋もなさ」には、驚かされるばかりです。<br> こういうことを考えつくというのも、これまでの常識やマナーに縛られない人だから、なのでしょう。<br> 受け取って気に入らなかったから、というのならともかく、「受け取る前に、リセットできるシステム」っていうのは、贈る側からすれば、けっこう傷つくのではないかなあ。<br> それとも、「相手が喜んでくれるのが一番だから、イヤイヤながら受け取られるよりは、他の品物やギフト券に換えてもらったほうがいい」と考える人のほうが多いのでしょうか。<br><br> このシステム、少なくとも日本ではまだ実装されていないようです。<br> この本に書かれているように、Amazonにとってはコストが省け、梱包材などの資源の節約にもなるので、「気持ち」の問題さえなければ、素晴らしいアイデア、とも言えるのですが……<br>
韓国をワールドカップでベスト4に導いた、ヒディンク監督の「言語改革」
2012-11-28T00:00:00+01:00
2012-11-28T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20121128
『わかりあえないことから』(平田オリザ著/講談社現代新書)より。<br><br>【2002年のサッカーワールドカップ日韓大会。日本はベスト16に進出し、韓国は審判の誤審に助けられた点もあったかもしれないが、ベスト4にまで躍進した。<br> 大会前の下馬評では、組み合わせの有利さもあって日本の方が上まで行ける可能性が高いのではないかと噂されていたが、韓国は、ポルトガル、イタリア、スペインと強豪国を次々に破って、日本以上の大きな成果をあげた。<br> この躍進の陰には、チームの言語改革があったと言われている。<br> 2000年前後から、韓国代表チームは低迷期にあり、2001年のコンフェデレーションズカップで準優勝を果たした日本に、実力的に追い抜かれたと韓国内のマスコミも騒ぎ出した。<br> そこで韓国サッカー協会は、5年ぶりに外国人監督を招くことを決意する。日本でも有名なオランダの名将フース・ヒディンクである。<br> 韓国のスポーツ界は極端なエリートシステムを採用しており、サッカーでも野球でも、高校の全国大会でベスト4、ベスト8あたりに入っていないと、強いクラブのある大学に進学することが難しい。日本のように、高校時代には無名だった選手が遅咲きで活躍するといった余地は少ない。スポーツの指定校制度があって、トップに至る道は限られている。そのため代表チームともなれば、すべての選手が高校、大学、Kリーグのどこかの段階で先輩ー後輩の関係にある。先に書いたように、韓国社会では、この関係は絶対だ。ただでさえ年齢による敬語の使い分けが厳しいのだから、当然、後輩は、そうとう丁寧な敬語で喋らなければならない。<br> しかも韓国語の敬語は、敬意が強ければ強いほど、言葉をつけ足し、長く伸びていく性質を持っている。だから極端に言えば、パスをする際には、いちいち、「先輩様、ボールをお譲りいたします」といった感じの言葉遣いになってしまう。あの激しいサッカーの動きの中で、これはいかにも面倒だ。<br> ヒディンクは、そこはさすがに名将たる所以で、何度か練習を見るうちに、「何かがおかしい」と感じたらしい。フィールド内の上下関係が厳しく、使っている言葉も人間関係によって違う。そこで事情を聞いてみると、韓国語では年齢に応じて敬語を使い分けなければならないということがわかってきた。<br> ヒディンクは、選手を集めて以下のようなことを伝えた(とここからは私の想像だが)。<br>「私は外国人であるから、これまでの学閥にとらわれた選手起用はしない(実際、それまでは代表監督が替わると、その出身大学の同窓生が優遇されるというような傾向があった)。そのかわり、君たちもフィールド内では年齢に関係なく対等な言葉を使い、名前も呼び捨てにして欲しい」<br> これは、韓国語を母語とする者にとっては、大きな変革であった。しかし、この改革がチームの連携を強め、さらには個々の力を引き出し、のちの韓国の躍進につながったと言われている。<br> ちなみに日本チームは、三浦知良選手や中田英寿選手が早くから海外に出て、「フィールド内では上下問わず呼び捨て(あるいはあだ名で呼ぶ)というコミュニケーションを身につけていたので、そうとう早い時期から対等な呼び名の習慣ができていたようだ。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br> あの2002年ワールドカップでの韓国の躍進の陰には、こんな「改革」があったんですね。<br> 韓国は儒教社会で、「年長者に対する礼儀」が厳しいというのは聞いたことがあったのですが、サッカー界にも、こんなしがらみがあったのか……<br><br> 試合中、一瞬の判断が必要な場面になればなるほど、「パスしようという相手が先輩かどうか?どんな敬語を選択するべきか?」なんて考えなければならないのは、ハンディキャップになってしまうはずです。<br> いまの日本人である僕にとっては、「ボールをお譲りいたします」なんて、コントみたいな感じですが、韓国人にとっては、それが「常識」であって、ヒディンク監督という「外国人」の視点がなければ、それを変えることはできなかった。<br><br> 韓国人の選手やスタッフのなかにも、その「非効率性」を感じていた人もいたとは思うんですよ。<br> しかしながら、それを言い出すのは難しいことだったのでしょう。<br> 「言葉のハンデ」があるとしても、こういうのが「外国人監督を起用するメリット」なのですね。<br> 自国出身の監督だと、どうしても「さまざまなしがらみ」も出てきやすいでしょうし。<br><br> もちろん、あの大会での韓国の躍進が、この「言語改革」によるものだけではないと思うのですが、スポーツには、技術的な面だけではなく、こういうコミュニケーションの面での「改善」がチームの強化につながることもあるのです。<br><br> 僕はずっと、日本のサッカー選手たちが、チームメイトをあだ名で呼んだり、年長の選手と敬語や丁寧語を使わずに喋るのが、ちょっと不快だったんですよ。<br> 礼儀知らずの連中だなあ、スポーツ選手なんて、こんな感じなのかなあ、って。<br> でも、これを読んで、「シンプルな言葉でやりとりできる環境づくり」もまた、チームを強くするための手段なのだな、と腑に落ちました。<br>
世界でいちばん幸福な「ガラス張りの国」
2012-11-13T00:00:00+01:00
2012-11-13T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20121113
『こんなにちがう ヨーロッパ各国気質 32か国・国民性診断』(片野優・須貝典子共著/草思社)より。<br><br><br>【原油のおかげで、ヨーロッパで最も堅実で豊かな福祉国家となったノルウェーは、世界最高の人権国家である。国連開発計画(UNDP)では、毎年人間開発報告書を発表し、世界各国の生活の豊かさを示す「人間開発指数(HDI)を公表している。<br> HDIとは、出生時平均余命、成人識字率、初等・中等・高等教育の総就学率、一人当たりのGDPなどから、人間開発の達成度を数値で表したものだ。つまり、それだけ人間らしい生活を送り、人生に幸福を感じているかということで、幸福の中身には、心身の健康、やりがいのある仕事、円滑な人間関係、快適な住環境、十分な教育といった要素が考慮される。<br> 毎年、ノルウェーはHDIが世界第1位で、引き続き2011年も、最高に豊かな国であることが証明された。ちなみに日本は第12位だった。<br> 加えて、ノルウェーは最も男女平等の国で、兵役以外は社会において男女の差別がない。このため、男女が社会的利益を平等に享受しているかどうかを数値で表す「ジェンダー開発指数(GDI)」も、男女間の機会均等や女性の社会進出の度合いを示す「ジェンダー・エンパワーメント指数(GEM)も、ともに世界第1位である。<br> 一方、ノルウェーは税金が高いことでも知られる。かつでギネスブックで、世界一税金が高い国として紹介されたことがあった。この国の消費税は24パーセントで、所得税は36〜54パーセント。もっとも、所得税は年滅調整で戻りがあるので、実質的には28〜48パーセントになる。<br> 税金は毎年1月に申告する必要があるが、税金の算出方法がわかりやすいうえ、個人が携帯電話でも簡単に申告できるようなシステムになっている。<br> それと面白いことに、年収の14パーセントが翌年に休暇手当として国から交付される制度がある。やはり幸福な人生には、バケーションは必要不可欠なのだ。<br> さらにノルウェーには、度肝を抜かれるようなガラス張りの税システムがある。なんとこの国では、誰もがインターネットで簡単にすべての国民の個人資産、年収、納税額、住所、電話番号を閲覧できるようになっているのだ。<br> 昨今、日本やアメリカなどでは、個人情報の流出が大きな問題になっているが、そもそもノルウェーではこんな問題は起こりえない。ましてや巧妙に嘘をついてまで金を騙し取るオレオレ詐欺の犯人の心境など、到底近いできるものではない。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br> 北欧の国、ノルウェーは、「日本の全国土面積に熊本県を足したほどの広さ」で、人口は約490万人。<br> 北欧の国々には「高負担、高福祉」というイメージがあるのですが、産油国であることも豊かな国である理由のひとつなので、日本にはなかなか真似できないところはありそうです。<br> それにしても、「消費税は24パーセントで、所得税は36〜54パーセント」というのは、幾分かの還付があるとしても、日本よりもはるかに重税です。<br> 日本の消費税も、この数字に比べると、予定されている増税があったしたとしても、まだまだ税率は低いですよね。<br> <br> こんなに税金が高いのに、ノルウェーが「幸福な国」であるのは、「税金が高くても、教育がしっかりしていて、将来への不安が少なく、安心して年を取れる」ということの重要性を考えさせられます。<br>「増税したら、不景気になる」というけれど、税金が本当に将来のために使われるのであれば、「ノルウェー方式」を望む人は、日本にも少なくないはずです。<br><br> それにしても、この「ガラス張りの税システム」には驚かされますね。<br> いまの日本であれば、「個人情報保護が……」という話になることは間違いないはずですが、ここまで「すべての人の情報が公開されている」と、かえって、いろんな犯罪はやりにくくなるのかもしれません。<br> こういうのは、人口500万人弱の「小さな国」だからできる、という面はあるのでしょうが、ひたすら「個人情報保護」の方向に突き進んでいる日本に住んでいる僕からすると、この「逆転の発想」は、すごく新鮮に思われます。<br> 大部分の人は、「公開されていても、困らない」し、「公開されている一般人の個人情報を知ったところで、とくにできることもない」。<br> 僕自身の感覚では、やっぱり「ここまで自分の情報が公開されているのは怖い」と感じるのですけどね。<br> ただ、もしかしたら、その「怖さ」は、長年周りから植え付けられてきた「思い込み」なのかもしれません。<br> フェイスブックの「実名主義」は、こういう「ガラス張りにしておけば、お互いに悪いことはやりにくいはず」という発想なのでしょう。<br><br> もちろん、いますぐノルウェーの真似をするのは困難です。<br> でも、いまのネット社会であれば、日本くらいの国でも、同じことをやるのは、不可能ではないはずです。<br> それが、本当に望ましいことかどうかは意見が分かれると思いますが、選択肢としては「ありうる」のではないかな、と。<br> <br> ただし、「世界一幸せ」で、移民に寛容であったこの国でも、2011年の7月に32歳の移民排斥を訴える男性による銃乱射事件で、69人が亡くなるという衝撃的な事件が起こっています。<br> 「国際化」のおかげで、この国の幸福が揺らいでいると感じている人もいる。<br> 世界でいちばん幸福な国でも、けっして、みんなが幸せなわけじゃないのです。<br> <br>
村上隆さんを叱咤激励した、ある会社の専務の話
2012-10-25T00:00:00+01:00
2012-10-25T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20121025
『創造力なき日本』(村上隆著/角川oneテーマ21)より。<br><br>【ある人に対して、「アート業界には、この世界で生きていくための手引書がない」という話をしたときにひどく怒られたことがありました。<br> その相手とは、フィギュア制作で知られる海洋堂の宮脇修一社長(当時は専務)です。<br>「フィギュア業界に比べれば、あんたたちの世界はものすごく恵まれている。今の世の中、模型屋がある町なんてほとんどないけど、文具屋に行けば画材は買える。都心などには大きな画材屋もある。それに幼稚園でお絵かきするのはもちろん、小学校から高校まで美術の時間もあるんだから、その裾野はものすごく広い。つまりあんたの業界はわしらより恵まれているんだ。盛り上げ切れないならそれは当事者であるあんたの力が無いからだ。それがわかっていないのか!」<br> というわけです。<br> 言われてみれば、たしかにそのとおりです。これまでにぼくは、『GEISAI』などのイベント開催を通して、この業界に人を集めるのは難しいことだと痛感させられていました。しかし、日本中のほとんどの人が絵を描いた経験を持っているというのは間違いないことです。模型制作といったコアなジャンルとは較べるまでもないのはもちろん、野球やサッカーなどと較べても、経験者人口は多いはずです。それを考えてみれば、これからアート業界というインダストリーに多くの人が集まり、大いに発展していく可能性もあるわけです。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br> 村上隆さんは、海洋堂とのコラボレーションで、数々の作品を世に出しておられますが、海洋堂の宮脇社長から、こんな叱咤激励もされていたんですね。<br><br> 「アート」というと、セレブの道楽の世界という感じがするのですが、たしかに、小さいころから「お絵描き」はするし、学校には美術の時間もあるわけです。<br> 僕は不器用で美術は苦手だったのですが、少なくとも、実際に筆をとって描いてみて、「すごい絵を描くのは難しい」という経験を持ってはいることになります。<br> そういう意味では、たしかに日本の「アートの裾野」っていうのは、かなり広いと言えそうです。<br> 実際、有名な絵が含まれている展覧会では、けっして入場料が安くない(大人ひとり1500円くらいが相場でしょうか)にもかかわらず、土日は入場制限が必要なほどの行列になり、「立ち止まって見ないでください!』なんて言われるような状況になっているのです。<br><br> ただ、「現代アート」は、美術の時間でもあまり触れられることもなく、「印象派基準」で、村上隆さんの作品も「なんであんな女の子のフィギュアに何億円もの値がつくんだ?」と思われがちではありますよね。<br> これから、日本に「アーティスト」を生みだしていくためには、学校の美術の授業の内容も、ちょっと考えてみる必要があるかもしれません。<br><br> この話、どちらかというと、「アート業界の努力不足を責める」よりも、「コアな世界だと思われていたフィギュアの潜在的な需要を掘り起こし、立派に商売にしてしまった海洋堂のすごさ」を讃えたほうが良いのではないかとも思いますけどね。<br>
大事な記録ほど、扱いにくい状態で機械化が進んでしまう
2012-10-09T00:00:00+01:00
2012-10-09T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20121009
『「調べる」論〜しつこさで壁を破った20人』(木村俊介著・NHK出版新書)より。<br><br>(各界の「調べる」ことによって成果を上げてきた人たちへのインタビュー集から。ヒューマンエラー研究者・中田亨さんの項の一部です)<br><br>【ミスを研究し続けていると、日本の組織というのはどのような構造にあるのか、という研究も別個に行うようにはなりました。たとえば、年金の記録が消えてしまったという大きなミスがありましたよね。あの時には、年金事務所で働いている人が怠け者であるだとか、注意が足りないんだとかいうようなことが世間ではよく言われましたよね。<br> しかし、日本の組織のうちのひとつが起こした問題でもあって、個別に年金に関連した人々が悪かったというようなことよりは、むしろ、国の重要組織だからということから来ている問題のほうが大きいように私としては考えるようになりました。<br> 年金って、とても大切な記録ですよね。だからこそ、非常に早い段階で、かなり昔からコンピュータが導入もされた。その時に使っていたコンピュータにそのつど微調整を加えて、何とか、今までやってきたんです。すると、その結果で何が起きているのかと言うと、いまだに画面が白黒のコンピュータを使って年金を処理している、みたいなことになってしまった。<br> 家電量販店でも、今、画面が白黒のコンピュータってなかなかないですよね。しかし、非常に大事な記録をする機械に、そんなものを使っているという状況が出てきてしまった。<br> あるいは、今のコンピュータならば、ワードなりエクセルなりで、記録の内容そのものも整理された画面で見られるわけだけれども、年金記録の場合はそのことについても何十年も前に導入した非常に見にくい表のままになっていて、つまり、さきほどの画面が白黒という面も含めてですが、これは注意が足りないというのとはまた別に、間違えやすいようなわかりやすい図を見て仕事をしなければならないところに問題があるのではないか、と考えざるを得ないように思いました。<br> つまり、どういう経緯でミスが生まれてしまったのか。社会的に重要なシステムであるほど、早めの機械化がなされて、つまり、今となっては「世の中でも相当に遅れている機械を使っている」なんてなってしまうわけです。これについては日本のみならず、世界の先進国でも起きていた状況です。新興国は最近になってからコンピュータを買うから、そうした社会的なシステムを処理する機械に関しても最新型のものが入っているんですけどね。<br> ですから、年金記録のミスというのは、起きてほしくなかった問題であるけれども、宿命的に起きてしまったミスでもある。大事な記録ほど、扱いにくい状態で機械化が進んでしまうという。これについては、原発の内部なんかでも、白黒の画面というのは当たり前なほど、やはり重要だから機械化が早かった側面があります。ここから見えてくるミスの状況というのもあるわけです。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br> 「年金問題」というと、「社会保険庁のお役所体質」や「いいかげんな仕事ぶり」がクローズアップされてしまっていたのですが、これを読むと、たしかに「それだけではない」のだなあ、と。<br> 日本にたくさんのお役所や企業があって、社会保険庁だけが「突出していいかげんな組織だった」ということも無いのでしょうから。<br> 正直、大事な仕事なんだから、もうちょっと「効率化」を考えるべきだったんじゃないか」という気はしますが。<br><br> この話を読んでいて、僕は以前勤めていた大きな病院のことを思い出しました。<br> その病院は、その市で1、2を争う規模で、研修施設でもあったのですが、まだ他の病院が手書きのカルテだった時代に、いちはやく検査の依頼や結果参照を院内でオンライン化し、どこででも見られるようにしたのです。<br> これに慣れたおかげで、他の病院に行ったときには、いちいち伝票を書いたり、検査結果が印刷(あるいは手書き)で返ってくるのを待つのを面倒に感じていました。<br><br> ところが、コンピュータが進化し、他の病院でどんどん電子カルテ化が進んできたにもかかわらず、その大きな病院は、なかなか電子カルテ化されませんでした。<br> 最初にコンピュータが導入されてしまったがゆえに、いざ、先進的な電子カルテに切り替えようとしたときに、なかなか踏ん切りがつかなくなってしまったのです。<br> これまでのデータの移動が難しくなることや、システムを一から造り直さなければならないこと、そして、これまでのシステムも、古いけどまだ使えないこともない、ということで。<br> まあ、最大の問題は「お金がない」ってことだったんですけどね。<br><br> もとの古いシステムには、「将来的にデータの移行をスムースにするようなシステム」は組み込まれていなかったので、切り替えのときには、「何を残して、何を捨てるか」も問題になりました。<br> なんとか新しいシステムに切り替えた際には「一からやったほうがラクだったなあ」なんていう話を、いろんな人から聞いたものです。<br><br>「大事な記録ほど、扱いにくい状態で機械化が進んでしまう」というのは、たしかにその通りなのでしょう。<br>「扱いにくい」というか「システムが十分洗練されていない状態で、『最新技術』が投入されてしまう」ことによる弊害というのもあるのです。<br> もちろん、いまの「最新技術」も、いずれは「老朽化」する運命なのですが、だからこそ、「老朽化することを前提としたシステムづくり」が、これからは重要なのかもしれませんね。<br><br>
「今からあなたの家の時計を止めてみせます」という超能力の秘密
2012-09-26T00:00:00+01:00
2012-09-26T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20120926
『ゼロリスク社会の罠』(佐藤健太郎著・光文社新書)より。<br><br>【怪しい話かどうか見分けるポイントとして、「分母が示されているかどうか」ということがあります。<br> 多くのケースでは、「××によって20件の事故が起きた」というだけの報道がなされますが、これが50件中20件の事故であるのか、1000万件中20件であるのかで話は全く変わってきます。<br><br> 数百メートルの上空から落ちてきた一滴の水が、ある人の頭に当たるリスクは限りなくゼロに近いといえます。<br> しかしひとたび雨が降ってくれば、我々はあっという間にびしょ濡れになります。ひとつの雨粒が当たる確率はほぼゼロでも、雨粒の数はとてつもなく多いからです。分母(雨粒の数)がとてつもなく大きくなれば、分子(頭に当たる数)もそれにつれて大きくなるのが当然でしょう。<br><br><br> 昔、超能力ブームのころに、こんな番組がありました。超能力者を名乗る人物が、テレビカメラの前で、「今からあなたの家の時計を止める」と宣言し、念を送る仕草をしたのです。<br> するとほどなくして「うちの時計が止まった」という電話がスタジオにかかり始め、番組終了まで電話のベルは鳴りやみませんでした。<br> この話のタネは単純です。もしある時計が3年に一度止まるとしたなら、1時間のうちにその時計が止まる確率は、1/(3×365×24)で2万6280分の1となります。<br> しかし、テレビを見ている家庭は何百万世帯もありますし、それぞれの家に時計は数台はあるでしょう。別に超能力など使わなくても、放送時間中に全国で何千台も時計が止まって当然なのです。<br> しかし数百万、数千万という分母は我々の日常感覚では捉えにくく、認識を大きく狂わせてしまいます。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br> 僕の子どもの頃、ああいう「超能力番組」はけっこう好きで、家の時計を「止まるかな……」と、じっと見ていた記憶があります。<br> 残念ながら、僕は直接その「止まった場面」を体験したことはないのですけど。<br><br> これを読むと、あの「スタジオから念を送って時計を止める超能力」には、まさに「タネも仕掛けもない」ことがわかります。<br> だって、「何もしなくても、日本中で、どんどん時計は止まっている」のだから。<br><br> そして、「偶然時計が止まった人たち」が、大きな声でアピールすれば、他の視聴者も「これは超能力だ!」という気分になってしまうんですね。<br> たしかに、母集団が大きければ、3万分の1でも、少なからぬ数の人が、「体験」してしまうものなあ。<br> まあ、実際は、「念を送った場合」と「送らなかった場合」に止まった時計の数を比較対象してみなければ、完全に否定はできない話ではあるのですが。<br><br> こういう話って、一度聞いておけば、そう簡単に引っかからないとは思うのですけど、意外と誰も教えてくれないものなんですね。<br> ごく当たり前に起こることでも、「演出」で、超能力のように見せかけることができるのです。<br> もっとも、これに関していえば、「分母」がそれなりの数必要なので、逆に忘年会のネタとして簡単にできるというものでもないのですけど。<br><br> ああいう番組が最近少なくなったのは、「似非科学」に対する免疫ができてきたことと、何より、「時計が以前ほど頻繁には止まらなくなった」ためなのかもしれませんね。<br>
やなせたかし先生が語る「とびぬけて成功したキャラクター」
2012-09-19T00:00:00+01:00
2012-09-19T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20120919
『人生、90歳からおもしろい!』(やなせたかし著/新潮文庫)より。<br><br>【ところでインタビューの時に必ずといっていいぐらい聞かれるのは、「今までつくってきた多くのキャラクターの中で何が一番好きですか?」という質問で、これが実に答えにくい。<br> なにしろアンパンマンシリーズだけで2300ぐらいある。このすべてにそれぞれ思い入れがあるから、どれかひとつにしぼると他のキャラに嫉妬されるじゃないですか。<br> どれが好きとはとても言えない。キャラは全部自分の愛する子どもたち、運、不運、売れる売れないがあって、一度だけで消えてしまう短命の者もあるが、作者としてはみんな可愛い。<br> しかし成功したキャラということになると、アンパンマンは別格としてやはりバイキンマンがとびぬけていますね。<br> 最初にはただ敵役をつくろう。食品の敵だからバイキンだろうとごく軽い気持ちで蠅を擬人化したような感じで描いたのです。<br> バイキンが敵役で登場してメーンキャラをはっているのは世界中でアンパンマンシリーズだけではないのかな?<br> ところがこれがズバリ適中!<br> なぜかといえば、生きるということはバイキンとの戦いを避けて通ることは不可能!<br> それではバイキンを全滅させればいいのかといえば、その時は人間そのものも死滅してしまう。パンも酵母菌、イースト菌がなければつくれない。しかしインフルエンザ菌とかいろいろ怖いバイキンもいて戦わなくてはいけない。健康であるということは善玉菌と悪玉菌のバランスが良好な状態。<br> これは国家の成立についてもいえることで、独裁、専制はファシズムの危険がある。<br> だから、アンパンマン対バイキンマンの戦いは永久にくりかえされるわけで、そこにバイタリティーが生まれる。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br> 『アンパンマン』シリーズには、2300もキャラクターがいるということがすでに驚きです。<br> まあ、かなり強引にキャラクターにしているようなものもあるのだけれども。<br><br> 「アンパンマン」はたしかに「別格」として、やなせ先生にとて、その次に「とびぬけて成功したキャラクター」は、「バイキンマン」。<br> 言われてみればたしかにその通りで、「アンパンマン」がこんなに長い間人気を持続しているのも、「魅力的な敵役」のおかげではあるんですよね。<br> 子どもと一緒に『アンパンマン』シリーズの絵本を読んでいると、バイキンマンがほとんど同じパターンで悪さをして撃退されるのですが、どんなに酷い目にあっても、アンパンマンはバイキンマンを「撤退」させるだけで、「絶滅」しようとはしないのです。<br> 逆に、バイキンマンのほうも、アンパンマンにしょっちゅうちょっかいは出しているけれど、存在を消してしまおうとはしていないように見えます。<br> 大人からすれば、ちょっと「ぬるいな〜」なんて考えてしまうところもあるのですが、『アンパンマン』の世界には、やなせ先生の「バイキンとは戦わなければならないけど、全滅させるわけにもいかない」という考えが反映されているのでしょう。<br><br> いやほんと、海外に旅行すると、よく日本の子どもと接する大人たちは、かなりの高確率で、お別れのときに「バイバイキ〜ン」をやるんですよね。<br> そして日本の子どもたちには、ほぼ鉄板でウケるのです。<br> こんなシンブルかつオヤジギャグみたいなフレーズがなんでここまで愛されているんだろう……と内心疑問でもあるのですが、バイキンマンというのは、ある意味、アンパンマン以上に「愛されている」のです。<br> たしかに、「もっとも成功したキャラクター」と言えますね、ほんと、敵役って大事だ……<br>
サブカルが「切ないジャンル」である理由
2012-09-11T00:00:00+01:00
2012-09-11T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20120911
『サブカル・スーパースター鬱伝』(吉田豪著・徳間書店)より。<br><br>(「文系男子(サブカルもの)は40歳で鬱病になるって本当?」というテーマで、吉田豪さんが11人の「文化系有名人」にインタビューした本の一部です。枡野浩一さんの回より)<br><br>【枡野浩一:でも、リリー・フランキーさんや松尾スズキさんみたいにお金があっても憂鬱になるのかと思うと……。<br><br>吉田豪:サブカルは成功した人たちがみんな病んでるからこそ、切ないジャンルなんですよ。<br><br>枡野:どうしたらいいんでしょうね? 僕も最近は変に名前だけ知られて、出版社のパーティーとかに顔出すとみんな僕の顔は知っているんだけど全然仕事してない感じだし。あと、ユーストリームのせいか駅とかで声かけられたりサイン求められたりして、「観ました」ってすごく言われるんだけど、顔がそんなに知られてても全然いいことないし……。<br><br>吉田:もういっそユースト有名人みたいな感じで、そっちで特化していけばいいと思うんですよ。文字だと冷静すぎて冷たく捉えられることが、枡野さんの可愛い系のしゃべりで中和されるからいいんですよね。<br><br>枡野:なんか、そう言われると自分にとっての大切さよりも需要のほうが大事だから、需要あるならやろうかと思いますね。たとえば本がまったく売れなかった時期のほうが、いつかは売れるかと思ってたから幸せで、半端に売れて「あ、こんなものか」と思ったときに、たぶん能力的にこれ以上にはならないから、ホントに希望が持てなくなっちゃって。<br><br>吉田:現実が見えたわけですね。<br><br>枡野:短歌も、僕、短歌の世界ではあまりにも有名になっちゃったし、影響力もあったので、結構飽和しちゃってて、もう枡野は若い世代の歌人にとって「乗り越えられていく存在」なんですよ。ハッキリ言うと終わった歌人というか。たぶん自分の表現はどんなに頑張っても、かつて自分がしたこと以上のことにならないと思っているから、頑張りようがないですよね。それをないことにして現役であるような振りをすることはできないから。誠実にやっているつもりですけど。<br><br>吉田:誠実すぎますよ!】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br>「サブカルは成功した人がみんな病んでいる」か……<br>この対談集を読んでいると、『東京タワー』のリリー・フランキーさんをはじめとして、みうらじゅんさんや松尾スズキさんなどの「サブカルドリーム」の体現者たちが、40歳を境に、次々と鬱になっていっているんですよね。<br><br>この枡野浩一さんの話を読むと、もちろん「誰にも相手にされない、成功できない」ことは大きなストレスなのだけれども、枡野さんくらい歌人・作家として認められても、それはそれで「自分は認められても所詮、こんなものか」とかえって幻滅してしまうことがあるのだなあ、と。<br><br>それは、ものすごく贅沢な話ではあるんだろうけど、本人にとっては、他人が何と言おうと「自分が見ている世界」っていうのは、そう簡単に変えられるようなものじゃないですしね。<br>それこそ、成功して、有名になったとたんに「成金ワールド」に突入して、天狗になってしまえれば、本人にとってはラクなんじゃないかと思うのですが、文化系にとっては、「成功してしまうことへの罪の意識」みたいなのもあったりして、なんというか、とにかくややこしいみたいです。<br><br>ちなみに、吉田豪さんは、「サブカル鬱」の原因として、基礎体力がない文化系は、40歳くらいから急激に体力が落ちていくことと、子どもの成長や親との関係の変化などの環境の変化が大きいのではないかと推測されています。<br><br>町山智浩さんは、「サブカルの人たちが40歳ぐらいでおかしくなるのは簡単だよ。もともとモテなくて早めに結婚して生活を支えてくれた女性がいたのに、モテだしたらほかの女に手を出して家庭が壊れるの。みんなそうだよ!」と仰っているのだとか。<br><br>こうして考えると、サブカル者の将来は、どっちに転んでもつらい、ということになるんでしょうね。<br>まあ、だからといっていまさら体育会系に「転向」できるわけもないので、どうしようもないんでしょうけど……<br>
アメリカの大統領が日本のホテルに泊まるとき
2012-08-29T00:00:00+01:00
2012-08-29T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20120829
『ホテルオークラ 総料理長の美食帖』(根岸規雄著・新潮新書)より。<br><br>【このフォード大統領の来日以降、アメリカの大統領が来日するとホテルオークラに宿泊するというパターンが増えました。<br> ブッシュ大統領、カーター大統領、クリントン大統領等々は、ホテルオークラを好んで指定してくれていたようです。アメリカ大使館が近いという地の利もあったのだと思います。<br> もちろんそれは名誉なことなのですが、スタッフは大変です。<br> 当時客室係として大統領一行を担当した経験を持つ、三橋由之氏がこう証言してくれました。<br>「大統領一行はスタッフを合わせれば百数十名になり、報道陣も大量にやってきますから、約500室ある別館全体が貸し切りということになります。別館が丸ごとホワイトハウスになるのです。ことに大統領がお休みになるお部屋は、最上階(ペントハウス)のインペリアルスイートになるのが通例ですが、来日に合わせてこの階には、米軍の横田基地から持ってくる20ミリの分厚い防弾ガラスの壁がつくられます。さらに各部屋を火薬探知犬が嗅ぎ廻り、不測の事態に備えます。私たち客室担当も震え上がるような獰猛なドーベルマンでした。<br> 客室の清掃は、特別なバッジをつけた担当者が行うのですが、必ず一人一人にSPがつきます。このSPは、廊下に花をいけた花瓶があると、その水までチェックするのですから完璧です。<br> 大統領の室内に入れるのは、厳重なチェックを受けたルーム担当者のみ。日本の総理大臣や財界人から花が贈られてきても、全てSPスタッフが根元から花をむしって調べるために、高価な花も台無しです、ケーキが贈られてきたこともあったのですが、それも食べる前にナイフでめちゃくちゃに突つかれて、チェックが終わるころには原型を留めていませんでした」<br> アメリカ大統領一行の滞在は名誉なことであっても、ホテルオークラ全体としては、営業的には非常に苦しいという実情もあったようです。なにしろ大統領の滞在中はホテルの内外で警備が厳重になり、一般のお客様にも影響が出るからです。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br> フォード大統領の来日以来、アメリカ大統領の「定宿」となっているホテルオークラ。<br> 「人類最高の権力者」が泊まるわけですから、警備が厳重なのはわかるのですが、大統領がやってくるたびに、ここまでやっているのだなあ、と驚かされました。<br> ホワイトハウスのように、大統領がそこにいるための施設で、もともと警備体制がととのっているのであればともかく、「民間のホテル」であるオークラにとっては、「名誉ではあっても、営業的には苦しい」というのもよくわかります。<br> 僕が宿泊客だとしても、「そんな息苦しい状況のホテルに泊まるのは、遠慮したい」ですし。<br><br> しかし、各部屋を獰猛なドーベルマンが嗅ぎ廻り、花やケーキはチェックでボロボロ、というのは、なんだかとても殺伐とした風景ではありますね。<br> 「なにもそこまで」と言われるくらいのことまでやらないと、安全というのは確保できないものなのかもしれませんが、この話を読むと、大統領が狙われるのが遊説中や劇場内で、宿泊先のホテルではない理由もわかります。<br> これでは、「そこにいる」とわかっていても、そう簡単に手は出せないはず。<br> まあ、だからといって、ずっと「箱入り大統領」というわけにもいかないでしょうけど。<br><br> これを読むと、いくら「インペリアルスイート」に泊まっていても、人類最高の権力者というのは、気苦労ばかりが多くて、あんまり楽しくないんじゃないかなあ、と考えずにはいられません。<br> もちろん、楽しもうと思って大統領になるわけじゃないでしょうが、彼らだって、ほとんどの人は、もともと「普通の暮らし」をしていたのだろうから。<br>
努力は、見えるところで、できるだけハデにやったほうがいい。
2012-08-22T00:00:00+01:00
2012-08-22T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20120822
『考えずに、頭を使う』(桜庭和志著・PHP新書)より。<br><br>【ところで、これまで逃げていった新弟子たちは、みんな人の目の届かないところで練習したがった。柱の陰とか、みんなの後ろのほうに隠れて、とか。努力は見えないところでするものだ、という言い方もあるかもしれませんが、それがどういう見え方をするのか、逆の立場になってみればわかります。<br> 人の目の届かないところでやっているのには、見られたくない理由があるのです。つまり、数をごまかしている可能性がある……。見ている側にしてみれば、そう思うのも無理はありません。<br> それは、とてももったいないこと。せっかく必死になってやっているのに、あらぬ疑いをかけられたら損以外の何物でもない。<br> だったら、多少はバテている姿をさらすことになったとしても、見えるところでできるだけハデにやったほうがいい。頭を使うとは、こういうことだと僕は思います。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br> 『IQレスラー』などと呼ばれることもある桜庭和志選手。<br> この新書を読んでいると、その合理的な考え方に「なるほどなあ」と唸らされるところがたくさんありました。<br> この文章は、そのなかのひとつです。<br><br> 「努力は人に見せるものじゃない」っていうのは、日本人の美学、みたいな感じで、けっこう認知されていると思います。<br> 僕も「努力は陰でするものだし、そのほうがカッコイイ」と信じてきました。<br><br> でも、長年レスリングや格闘技の世界で生きてきて、先輩に指導されたり、後輩を指導したりしてきた桜庭さんは、「指導する側にとっては、見えない努力は誤解を招くことが多い」と、あえて苦言を呈しているのです。<br> 体育の時間に、なるべく人目につかないように準備運動をしていた運動オンチの僕にとっては、「ああ、そんなふうに見られているんだなあ、やっぱり……」という感じでもあります。<br> 実際、人目につかないところだと、どうしてもサボりがちになりやすいですしね。<br> <br> 「見えるところでできるだけハデにやったほうがいい」<br> そうやって全体練習をこなして、必要性があるのであれば、それこそ個人練習をあとで追加すればいいだけのことですし、指導者に対して「こいつはちゃんと練習している」と思わせておいて損なことはないはずです。<br> あんまりアピールしすぎると、仲間には嫌われそうですが。<br><br> そもそも、「○○選手は陰でこんなに練習していた!」なんていうのが美談として伝えられている時点で、それはもう「陰の努力」じゃないんですよね。<br> そういう人たちは、「陰で努力している」というセルフプロデュースをやっているだけです。<br> どこかで誰かが見ているか、自分で話すかしないと、「陰の努力」のことは、誰も知らないはずなのだから。<br><br> 「努力をアピールすること」は、けっして悪いことじゃない。<br> 少なくとも、誤解を避けるために、必要な技術ではあるのです。<br>
「何てことない高校生活で何にもなかったんですよ」
2012-08-15T00:00:00+01:00
2012-08-15T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20120815
『本の雑誌』2012年8月号(本の雑誌社)の連載エッセイ『続・棒パン日常』(穂村弘著)より。<br><br>(穂村弘さんが、雑誌の企画で、いまはアナウンサーになっている同級生のIさんと一緒に卒業した名古屋の私立高校を訪れたときの話)<br><br>【記憶が白い理由が全く思い当たらないわけではない。何もなかったからだ。高校生活を営む上で多少なりとも発生する筈の恋愛やクラブ活動を巡る出来事が私の身には何も起こらなかった。アルバイトをしたこともなかったから、小学生の生活と大差ない。周囲の大人しい友人たちの場合もそれに近かったと思う。<br> 女の子と自転車の二人乗りをしたことがない。文化祭で喫茶店をやったとき、一緒にカーテンをつくったくらいか。空白の中に友達や女子から名前を呼ばれた記憶はいくつかあって、それが自分にとっては貴重な出来事だったからだろう。名を呼ばれるだけのことが珍しい。誰も私に用はないのだ。<br> 映画や小説とはちがって、現実には何もないということがある。わかっている。しかし、それを認めるのは勇気がいる。それとも現実はそんなものなんだろうか。何もないのが普通なのか。調査したわけじゃないから不明。<br>「何てことない高校生活で何にもなかったんですよ」。同行の記者に向かってI君が云った。その穏やかな口調に勇気を得て、そうなんです、何にもなかった、と私も云ってみる。口に出して、ちょっとほっとした。何にもないのはおそろしい。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br> 穂村さんは、このエッセイのなかで、当時の記憶、駅からの道筋や周囲の景色、校舎の配置などがほとんど記憶に残っていないことに驚いた、と仰っておられます。<br> 僕は男子校出身で、卒業して以来、20年くらい母校を訪れていないのですが、この穂村さんの話を読んで、なんだかすごくホッとしたんですよね。<br> 僕も、もし同じような状況になったら、きっと「何もない」だろうから。<br><br> でも、実際のところ、こういう状況に置かれたら、人は「何か」を探してしまうと思うのです。<br> とってつけたような「面白いエピソード」を、かなりのフィクションをまじえて、作り出してしまうかもしれません。<br> やっぱり、「何もない」のは、怖いし、「高校時代に何もなかった人」だと、他人にみなされるのは、ちょっと恥ずかしい。<br><br> この話のなかで、Iさんの「何にもなかったんですよ」という言葉を読んで、僕も少し勇気がわいてきたのです。<br> ああ、アナウンサーになるような人でも、高校時代「何もなかった」んだ、って。<br> 逆に「すごすぎて、何も言えない」ような思い出があった可能性もありそうですが。<br><br> けっこうみんな「何もなかった」のですよね。<br> それを口にするのは、けっこう勇気がいることなのだけれども。<br><br>
NHK_PR 1号さんの「もっとも印象に残っている失敗」
2012-08-07T00:00:00+01:00
2012-08-07T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20120807
『中の人〜ネット界のトップスター26人の素顔』(古田雄介著・アスキー)より。<br><br>(「ネット界のトップスター」たちへのインタビューをまとめた書籍から。NHK広報局の「中の人」NHK_PR 1号さんの回の一部です。企業アカウントでありながら、「ツイッターでは、あえて尖ったトーンを落とさないように意識している」という話に続いて。インタビュアーは古田雄介さん)<br><br>【――波風を抑えるのと逆向きの対策ですね。その部分をNHK公式アカウントで通すには、ご自身の覚悟や対応力もさることながら、局内の理解が必要ではないですか?<br><br><br>NHK_PR 1号(以下「1号」):そこは問題ないですね。職業柄、みんな賛否の意見が出ることに慣れていると言いますか、職場では「誰もが『いい』という番組を作っちゃいかん」と教えられていますから。<br> NHKでは多様な放送を出すのが使命だと考えていて、実際『おかあさんといっしょ』も『NHKスペシャル』も作っていると。それだけ幅広いものを出せば色んなニーズを持ってご覧になる方が出てくるので、たとえば、子供番組でぬいぐるみが会話しているのを流すと、「なんで動物が日本語をしゃべっているんだ?」というお叱りの電話をいただくこともあるんです。そういうご意見も含めて、幅広いものを出せば何かしらの反応はあるんだと、皆知っているんですよ。それが健全だし、それが当たり前だと。<br><br><br>――ああ、なるほど。第一線の報道機関で培ってきた土壌ですね。賛否の否にいちいちアレルギーを起こさず、理にかなった空気が流れているという。<br><br>1号:全員が絶賛するものを目指すと、偏りが生まれてきますからね。偏らずに中立を目指すと、「手ぬるい」、「やりすぎ」と、両方の側から同じ量のご批判がきます。それがちょうどよいわけで、賛否両論はあって当然と思っています。<br> 感覚的にはやっぱりラジオに近くて、パーソナリティとして番組を1本担当している感じなんですよね。リスナーがいなくなるようなつまらない方向にいきたくないから、それなりのエッジは効かせるし、番組は長く続けたいから、ヘンにリスキーな無茶はしないようにするという。<br><br>(中略)<br><br>――印象に残っている失敗を教えてください。<br><br>1号:はやぶさの件やさかなクンさんの件など、色々ありましたが、一番心に残っているのは、番組案内をした際の一件です。NHK総合とEテレで時間が被っている番組があって、フォロワーさんから「両方見たいんですけど」というツイートをもらって、「じゃあひとつは録画で見てください」と返したら、「録画機器を持っていないんです」と。生活保護を受給されている方で、子供に両方見せたかったということだったんです。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br> ちなみに、NHK内でも、「1号」さんの正体はほとんどの人が知らないそうです。<br> 本人に「あれって誰がやっているか知ってる?」なんて聞かれることもあるのだとか。<br> このインタビューを読んでいると、「マスゴミ」なんて嘲られることが多い日本のメディアも、かなり懐が広いのだな、という感じがします。<br> NHKって、公共放送として、「なるべく批判が出ないように、無難に」やっているのかと思いきや、ここまでの覚悟をして番組をつくっているんですね。<br> それにしても、子供番組に「なんで動物が日本語をしゃべっているんだ?」なんてクレームを付けてくる人が本当にいるというのには驚きました。<br> そりゃあ、ある程度は「いろんな批判が来るのはしょうがない」と思っていないと、やってられないですよね。<br> <br> その一方で、twitterはラジオ番組みたいなものだということで、「長く続けられるように、リスクは避けていく」という、かなり微妙なバランス調整を行っているのです。<br><br> この「もっとも印象に残っている失敗」の話を読んで、僕は正直「この相手の人、本当に生活保護をもらっている人だったのだろうか?」などと考えてしまいました。<br> NHK_PR 1号さんを困らせるための「なりすまし」だったのではないか、とも思うんですよ。<br> 少なくとも、twitterに書き込める、なんらかのツールは所有しているということだし。<br> そこで「自分の想像力の欠如」を反省したNHK_PR 1号さんはすごいなあ、と僕は感じました。<br> 反応せずに、スルーすればいいだけの話でもありますしね。<br><br> これを読むと、twitterというのは、多くの人と繋がれる一方で、ついつい、「自分を基準に考えてしまいがちなツール」なのだなあ、と考えずにはいられません。<br> 言葉だけだと「冗談でした」と言ったり、後で謝っても通用しない場合が多いですし。<br><br> 「自分の色」を出さないと、見向きもしてもらえない。<br> でも、調子に乗ると、すぐに叩き落とされる、そんな危険もあるのです。<br>
「10分の1の金額をあげる」作戦
2012-07-27T00:00:00+01:00
2012-07-27T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20120727
『生きる悪知恵』(西原理恵子著・文春新書)より。<br><br><br>(読者からの相談に西原理恵子さんが答えるという新書から。<br><br>相談者は、以前、お金に困っていた友人から、「100万円、せめて50万円でもいいから貸してくれ!」と頼まれたそうです。<br>「貸せない金額ではない」けれど、相手がトラブルの多い人であったこともあって、結局貸さなかったのですが、その後相手が死んでしまった(死因の詳細はわからないが、「クスリ」らしい、とのこと)とのこと。<br>「貸してあげるべきだっただろうか?といまでも悩んでいる」という相談への西原さんの回答)<br><br><br>【あなたがもし貸していたら悩まずに済んだかというと、そうじゃない。これから先、自分の商売がうまくいかなくなったり、体の具合が悪くなったりしたときに、ふと「あの100万円があったら……」みたいな気持ちになる。そのときに、相手の奥さんや子供を恨んだりするのが一番悪い心の風邪の弾き方だと思う。だから、やっぱり貸さないほうがいい。どっちみちムダだから。<br> そうはいっても、気持ち的にモヤモヤする、断り切れないっていうんだったら、そこで私が高須先生から聞いた方法。彼のところには「カネくれ!」って言う人がたくさん来るけど、どうしてますかって聞いたの。そしたら、相手が貸してくれという額の10分の1をあげなさい、だって。「貸す」じゃなくて、「あげる」。もし100万円貸してほしいと言うなら10万円をあげて、「あと9人、頭を下げて集めるくらいの努力はしましょうよ」と。100万円貸しちゃったら、返ってこないとやっぱり痛いし相手にも腹が立つでしょ。せっかく友達だったのが、どうしても疎遠になっちゃうし。でも、10万円ならわりとあきらめもつくし、貸し借りじゃなくて「10万円あげた人」「10万円もらった人」と思えば友達として付き合っていくこともできるじゃない。<br> 私もなかなか断れなくて何回も嫌な思いをしてきたので、今はこの「10分の1作戦」で行こうと。別に10分の1じゃなくても、相手との親しさによって、その人に「見舞金としてあげた」「香典としてあげた」と思えるぐらいの金額をあげればいい。それで怒ったり、文句を言うような人は、そもそも友達じゃないでしょう。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br> 僕はこれを読んで、ちょっと考え込んでしまったんですよね。<br> そんなに大金持ちではないので、「お金貸して!」って頼まれる機会はほとんど無いですし、昔から「カネ貸して」なんて言うヤツは、友達じゃないと思っていたから。<br><br> 「高須クリニック」の高須先生や西原さんのような成功者のもとには、そういう「お金の無心」がたくさん来るようです。<br> 「そんなの全部断ればいいのに」とは思うのだけれど、交友関係が広いと、そういうわけにもいかないのかなあ。「お金を貸してくれなかった」ということで、逆恨みされることもありそうですよね。<br><br> 「貸したお金」というのは、なかなか返ってくるものではありません。<br> そもそも、返すアテがあるのなら、人間関係も考えて、金融機関から借りることを選ぶ人のほうが多いはずです。<br> 西原さん自身も、この回答のなかで、「恥ずかしながら、貸し倒れが2000万円以上ある」と告白しておられます。<br> 昔の友人が子供を抱えて困っているのを見かねて、「つい100万円くらい」貸してしまうのだけれど、二度と連絡がなくなってしまう。<br> 「借金が返ってきたのなんて、2〜3人かな、今までで」とまで仰っています。<br> それでも、「手をさしのべてあげずにはいられない状況」っていうのもあるんだろうなあ、自分が少しでもお金を持っていればなおさら。<br><br> この「10分の1あげる作戦」が、正解なのかどうか、僕にはわかりません。<br> そもそも、10分の1だって、けっこう痛い。<br> それでも、「貸して踏み倒され、さらに友人関係も破綻するよりは、あげてしまったほうがいい」というのは、わかるような気がするんですよね。<br> 借金って、催促されるほうもイヤだろうけど、催促するほうにとってもイヤなものだから。<br> 相手が友人なら、なおさら。<br><br> お金持ちっていうのも、それはそれでけっこう大変なんだなあ、と考えさせられる話ではありました。<br> もちろん、「お金が無いよりはマシ」なのだとしても。<br>
「子ども」と「子供」の問題
2012-07-11T00:00:00+01:00
2012-07-11T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20120711
『その「正義」があぶない』(小田嶋隆著・日経BP社)より。<br><br>【子供は、原稿を書く人間にとって、何よりもまず、表記の問題として立ち上がってくる。<br> このことに、私は、過去20年来、折にふれて、わずらわされてきた。<br> たとえば、どこかのメディアに原稿を書く。<br> 私は、ふだん、「子供」と、この言葉を、二文字の漢字で表記している。<br> と、媒体によっては、ゲラの段階で「子ども」という書き方に訂正してくるところがある。<br>「ん?」<br> 最初のうちしばらく、私は、意味がわからなかった。<br> で、個人的に「漢字」と「かな」の混じった単語表記が気持ち悪いので、再度「子供」に直してゲラを戻したりしていた。<br> と、先方から電話がかかってくる。<br>「あのぉ、コドモの表記なんですが、『ども』をひらかなにする書き方はお嫌いでしょうか?」<br>「まあ、あんまり好きじゃないですが。そちらがどうしてもということなら、別にこだわりませんよ」<br>「……でしたら、恐縮ですが、ここは当方の表記基準に沿って、『子ども』とさせていただきます。どうも申し訳ありません」<br>「いや、かまいませんよ」<br> こういうことが幾度が続いて、何回目かのある時、私は、説明を求めた。<br>「お差し支えなかったら、『供』をひらがなに開く理由を教えていただけますか?」<br> と。この質問に対して先方の語ったところはおおむねこんな感じだった。<br><br><br>1.子供の『供』の字には、「お供」という意味合いがあって、結果「コドモ」と「子供」表記すると、『大人に付き従う者」であるというニュアンスが生じる。<br><br>2.その他、「供」を、神に捧げる「供え物」と見る見方もある。<br><br><br>「いや、私がこう思っているということではありません。読者の一部に、いまご説明したみたいな受け止め方をされる人々がいる、ということです。とにかく、慣例として、『コドモ』は『子ども』にしておいた方が面倒が少ないということです」<br> なるほど。<br> 全面的に納得したわけではなかったが、私は、先方の説明を受けいれることにした。モメるのも面倒だし、どっちにしても大差はないと思ったからだ。<br> 新聞社や雑誌と付き合っていて、この種の問題が持ち上がることはそんなに珍しくない。<br> そして、ほとんどの場合、私は、先方の表記基準をそのまま了承することにしている。用語や表記についてこだわり出すときりがないし、実際のところ、文句を言ってどうなるものでもないからだ。<br><br>(中略)<br><br> 話を「コドモ」に戻す。<br> 説明を受けて後、しばらくの間、私は、「子ども」という表記で原稿を書いていた。<br> と、ある時、童話作家の先生(かなり有名な作品を書いているちょっと有名な先生)から、メールをいただいた。前半部分は、いつも原稿を楽しく読んでいるというリップサービスで、後半(←たぶん本題はこっち)は「子供」の表記について、メディア側の強要に負けては駄目だぞ、というお叱りの言葉だった。<br> 以下、内容を列挙する。<br><br><br>1.「子供」の「供」は、単に複数形の名残り。たいした意味はない。<br><br>2・こういう文字を取り上げて問題にしたがるのは、子供を利用したおためごかしだ。<br><br>3.差別のないところに差別を言い立ててそれを問題視する連中は、差別をネタに何かをたくらんでいる。油断してはならない。<br><br>4.表現者が表記について妥協するということは、武士が刀を捨てるのと一緒。許してはならない。しっかりしなさい。<br><br>5.何よりもまず漢字とかなを交ぜて書く「交ぜ書き」は絶対に醜い。書いてはならない。<br><br><br> 恐れ入って、私は、早速返事を書いた。<br>「了解いたしました。以後気を付けます」<br> 以来、私は、特に制限がない限り、「子供」もしくは「こども」と書くことにしている。<br> でも、媒体の側が「子ども」表記を推奨してくる時には、しぶしぶ従ってもいる。<br> うん。わがことながら、ふぬけた対応だとは思う。でも、仕方がないのだよ。独自の表記を押し通すには、それなりの手間がかかる。そういうのが私はイヤなのだ。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br> 小田嶋さんは、「そもそも『子ども手当』の表記自体が『子ども』を採用していて、福祉行政や教育の現場では、いまなお『子ども』という書き方がスタンダードになっているのではないか」と推測されています。<br> 実は僕も、この「こども」をどう表記するかに関しては、アドバイスをいただいたことが何度かあります。<br> 「こども」が「大人に付き従うもの」とか「供え物」という意識は全くないのですが、「そう感じる人がいる」と言われてしまうと、「それは考え過ぎなんじゃないかな……」と思いつつも、やっぱり気にはなります。<br> いまのところ、僕のなかでは統一されていなくて、けっこう場当たり的に使っている、というのが実情です。<br> 個人的には、「子ども」と「子ども」よりも、「コドモ」とカタカナにしてしまうほうがはるかにいろんな(子どもを特別視するとか、ちょっとバカにしたような)ニュアンスを含んだ表現だとは思うのですが、これはまあ、あまり公の場所では使われません。<br> <br> しかしながら、思い返してみると、「子ども手当」が、「子供手当」と書かれているのを見たことがないので、行政的には「子ども」を使うべき(あるいは、使ったほうが無難)だと考えているのかもしれませんね。<br><br> 「子供」か「子ども」かで、書いている人のスタンスを色分けしようというほうが、乱暴なのではないかと僕は思いますが、その一方で、この有名な童話作家の先生の「子ども」批判にも、内容的には頷けるのだけれども、「そこまでこだわる必要があるのかなあ」と感じてしまうんですよね。<br><br> もし僕が職業的物書きだったら、自分の意志を貫き通せるような大御所でないかぎり、「はいはい、まあ、面倒なことは避けたいですものねえ」って、あっさり「子ども」に変えてしまいそう。<br> 逆に言えば、そこまで「子供」と漢字で書くことにこだわりもない、というのが本音です。<br> たぶん、世の中もそういう人が多いから、誰か声が大きくてめんどくさそうな人が言った「『子供』だと親の付録、生け贄!」みたいな、想像力が豊かすぎる話が『子供』と書きにくい理由になってしまったのでしょう。<br> <br> それなら、「美しい」の「美」なんて、生け贄になる羊が元になってできた漢字なんですよ!とか、言ってみたくもなるし、そんなことにこだわる前に、「こども」のためにできることがあるんじゃない?という気もするんですけどね。<br><br> 「子ども」か「子供」か?<br> 実にめんどくさくて、どうでもいい問題ではあるのですが、「差別表現」というのは、こういうふうに生まれてきて、いつのまにか「禁忌」になってしまうのだな、というのがよくわかる話ではあります。<br> とはいえ、「表現の自由のために、『子ども』じゃなくて、『子供』と書くぞ!」なんて主張するほどの「根拠」も「やる気」もないんだよなあ。だからこそ、こういうのは連綿と受け継がれてしまうのでしょう。<br> 少なくとも、「こども」にとっては、「そんなのより、小遣いアップしてくれないかなあ」って感じだろうとは思うけどね。<br>
「フェイスブックの友達は、150人程度が信頼関係を保てる限界」
2012-07-04T00:00:00+01:00
2012-07-04T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20120704
『フェイスブックが危ない』(守屋英一著・文春新書)より。<br><br>【私は、フェイスブックの友達が150人を超えたら、友人関係を見直す必要があると考えている。<br> 米国・ニールセン傘下のNM Incite(2011年12月調べ)によれば、友達リストから削除した主な理由は、「不愉快だから(55%)」「あまりよく知らないから(41%)」が多く、続いて「営業目的だったから(39%)」「気分をめいらせるから(23%)」「反応が少ないから(20%)」「政治的な投稿が多いから(14%)」「別れたから(11%)」となっている。<br> いずれにせよ、不愉快な思いをしている人が多いことは、事実だ。<br> 英国の人類学者ロビン・ダンバー氏は、ヒトがどのくらいの集団規模で生活しているか調べた結果、現代社会で共同生活を営む上での上限人数は約150人である、と結論づけている。<br> この結果から私は、「フェイスブックの友達は、150人程度が信頼関係を保てる限界」と考えている。後述の利用者の行動パターンかどうかを分析し、不正アクセスの疑いがある場合に追加の認証手段を用いるリスクベース認証の通称「友達当てクイズ」の観点からも、友達の人数が多すぎるとクイズに正解する確率が下がり、結果的に自分のフェイスブックにアクセスできないという問題がおこりうる。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br> 「現代社会で共同生活を営む上での上限人数は約150人」なのだそうです。<br> この数字、パッと見て、「少ない」と思うか、「そんなに多いのか」と考えるのか。<br> 学生時代、同級生の顔と名前を一致させるのも困難だった(というか、周囲からは僕もそういう存在だったのではないかと思うのですが)僕自身は、「150人って、そんなに大勢、大丈夫なの?」ちう感じなんですけどね。<br><br> 『フェイスブックが危ない』を書かれた、インターネットセキュリティの専門家の守屋さんは、これに準じて、「フェイスブックの友達も、150人程度が信頼関係を保てる限界」だと述べておられます。<br> ネットワーク上では、学校や職場と違って、「物理的な距離」のことをあまり考えなくてすむので、150人というのは、よりいっそう「現実的に対応できる人数」のような気がします。<br> というか、「相手の顔写真と名前が一致するには、このくらいが限界」といったところなのでしょう。<br><br> しかしながら、『フェイスブック』や『mixi』などのSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)をやっていると、自分の「ネットワーク上の友人」が少ないと劣等感が刺激されてしまうのです。<br> 自分の友人が少なく、書いたものにはわずかな反応しかないのに、友人はちょっとしたことを書いただけでも「イイネ!」がたくさんつけられていたりすると、「自分ももうちょっと『ネットワーク上の友達』が欲しいなあ」とか考えがちなんですよね。<br> それで、かなり基準を緩くして「友達集め」をやってみると、今度は、不快な言動に悩まされたり、いちいち「イイネ!」と反応するのがめんどくさくなったり……<br> <br> 実際のところ、僕自身も、友人も『フェイスブック』は、一部の自分をアピールするのに積極的な人以外は、「食事のメニュー紹介」と「旅行自慢」にしか使えていないのです。<br> 「自分や家族のセキュリティ」とか考え始めると、SNSで何か商売でもやろうというのでなければ、そんなに書けることは多くありません。<br><br> もちろん、「友達」が多いのは悪いことではありません。<br> でも、「友達を増やしすぎて、かえって何もできなくなってしまう」というケースは、少なくないのです。<br> やっぱり、「顔と名前が一致しないような人」を「友達」にしちゃいけないよね。<br> 自分では、「ネット上だけ」と思い込んでいるのだとしても。<br><br>
「世間は、思った以上に”ふざけたこと”に対して厳しい」
2012-06-21T00:00:00+01:00
2012-06-21T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20120621
『評伝 ナンシー関 「心に一人のナンシーを」』(横田増生著・朝日新聞出版)より。<br><br>【私が「小耳にはさもう」の初期のコラムで、ナンシーの笑いの志向というか、笑いのツボがよく表れていると思うのが、<加勢大周>と<新加勢大周>をめぐる二回の原稿だ。<br><加勢大周>という芸名の使用権をめぐって一悶着あった末に、事務所の社長が<新加勢大周>をデビューさせたとき、ナンシーはこう書いている。<br>「久々の『ちょっといい』事件だ。こんなにずさんでスキだらけな事件も珍しい。だれにも同情する必要のないところもいい。出てくる全員が浅薄系のバカ。(中略)/なんかもう、何やっても『不条理コント』だ。裁判だとか、肖像権がどうだとか、登録商標がどうしたとかいった『きちんとしたもの』をいくらちりばめても無駄である。(中略)<br> もう、全員がバカ状態のこの一件だが、さっき、拝みたくなるほどありがたいネタが飛びこんできた。元祖・加勢大周側の事務所が、『加勢大周』の登録商標といっしょに『新加勢大周』も含めた36個の芸名を先回りして登録申請していたというのだ。そのひとつは『東京加勢大周』だってよ。ああ、もう私は居ても立ってもいられないほど36個全部を知りたい。居ても立ってもいられないので私が36個を考えてみた。最後にそれを書き並べてお別れとしたい。きっと8割は当たっていると思う」(「小耳にはさもう」)<br> そして、自ら嬉々として36のバカバカしい芸名を書き連ねる。<br> しかし”加勢大周 vs. 新加勢大周”の闘いはすぐに終焉を迎える。<br> ほぼ一ヵ月後のコラムでナンシーはこう嘆く。<br>「わずか2週間という短命で『新加勢大周』は消えてしまった。こんな残念なことはない。(新加勢大周の事務所の)竹内社長がもくろんでいたとされる『新加勢大周増殖計画』『新加勢ゴレンジャー計画』などの夢の計画も日の目を見ることなくついえてしまった。/原因は、世間の冷たさである。私は『世間は、思った以上に”ふざけたこと”に対して厳しい』ということが、新加勢大周撤退の原因だと思う」(「小耳にはさもう」)<br> ナンシーは、世間のお笑いに対する理解が不足している、とした後でこう続ける。<br>「なぜそんなに『悪ふざけ』を忌み嫌うのか。『善』『悪』二極思考の強迫観念ではないのか。<br> 日常生活の指針を『善・悪』に置くことに、私は文句をつける気はない。でも『芸能』みたいなことも『善・悪』で判断するのは、見方として”下手”だと思う。<br> もう伝説のような話であるが、昔、『エノケソ』や『美空小ひばり』というのが地方を回っていたという。エノケンや美空ひばりと間違えて見に来る客をあてこんだニセ者である。エノケソは『悪』であろう。だまそうとしてるんだから。<br> 近くの公民館かなんかに『エノケソ』が来たらそうゆう『悪』を憎む人はどうするのだろうか。『エノケンと間違えて見に来る客がいたらどうする気だ!』とか、ミもフタもないような抗議をするんだろうか。めまいするほどダッセえ抗議。でもそれは『善』だ。それより何より『エノケソ』を見てみたいよ、私は」(「小耳にはさもう」】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br> ナンシー関さんが急逝されてから、今年の6月12日でちょうど10年になりました。<br> この(1993年の)「新加勢大周」をめぐる騒動、当時のワイドショーではかなり話題になったんですよね。<br> 当時、加勢大周さんは、「イケメン枠」としてかなり人気があったのですが、この騒動で、「本家」も「新加勢大周」も、「ネタ」として消費されてしまった記憶があります。<br> 裁判にもなり、芸名騒動が収束したのは、もう世間は「加勢大周」に見向きもしなくなった頃でした。<br> 僕はこの『小耳にはさもう』を読んだことがあって、この話の「自ら嬉々として36のバカバカしい芸名を書き連ねる」ナンシーさんを覚えています。<br> ああ、この人は、こういう話が本当に大好きなんだなあ、と。<br><br> この『エノケソ』『美空小ひばり』の伝説、僕も聞いたことがあります。<br> こういう「ニセモノ」たちが、どんな表情でステージに立ち、観客がどんな反応を示したのかすごく興味があります。堂々と「本物のように」出てきたのか、それとも、「ごめんね」と申し訳なさそうに登場してきたのか。<br> 観客の反応も興味深いですよね。<br> 会場は「違うじゃないか!』と怒号の嵐となったのか、「まあしょうがねえな、こんな田舎に本物が来るわけないし」とみんな苦笑しながらステージを観ていたのか。<br> <br> ナンシーさんがこれを書かれたのは、もう20年も前のことです。<br> もし、今の「ネット時代」に「加勢大周騒動」が起こっていたら、ネットではどんな反応がみられただろう?と想像してしまいます。<br> 笑いのネタとして消費されたのか、事務所や新旧加勢大周が「炎上」していたのか、あるいは、「こんな話ばかりマスコミは採りあげやがって!」と矛先が変わっていたのか。<br><br> 『エノケソ』とか『美空小ひばり』なんて、「こんなニセモノが出回っているから、要注意!」というツイートがあふれ、ニセモノたちは大炎上したでしょうね。<br> そもそも、あまりにも早く「真実」が拡散してしまうため、このような商売は成り立たないかもしれません。<br><br> 僕だって、いまのこの「高みの見物」の状況なら、「エノケソ、観てみたかったなあ!」なんて鷹揚に構えていられますが、本物を楽しみにしていたのに、「エノケソ」が出てきたら、「騙されたあ!」と苦笑できるかどうか。<br><br> たしかに「他人を騙そうとすること」は悪い。<br> でも、ナンシーさんが書かれているように、「芸能」の世界くらい、ちょっと大目に見るくらいのほうが良いのではないか、と僕も思うのです。<br> あんまり「潔癖」すぎる世の中は、かえって普通の人たちを息苦しくさせるだけだから。<br> 発言しているのは普通の人たちなのに、ネットという「公の場」を意識しすぎて日常生活での正しさのハードルを上げ、かえって自分の首を絞めているのではないか、とすら感じることがあります。<br> 「芸能」っていうのは、「日常で溜まった緊張を、ガス抜きする場」でもあるはずなのに。<br><br> それに「バカバカしいこと」で、「騙されるトレーニング」を積むことは、もっと大きくて、見極めが難しい「悪」に直面したときに、役に立つような気もするのです。<br> とはいえ、「犯人」に「オレに騙されたおかげで、お前もちょっとは賢くなっただろう」なんて言われたら、ものすごく腹が立ちますけどね。<br><br> でもやっぱり、もしタイムマシンがあるのなら、僕も「エノケソ」と、「エノケソ」が登場してきたときの観客の反応を観てみたいものです。<br>
自衛隊を指揮した「クロネコヤマト」の被災地支援
2012-06-13T00:00:00+01:00
2012-06-13T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20120613
『できることをしよう。〜ぼくらが震災後に考えたこと』(糸井重里/ほぼ日刊イトイ新聞著・新潮社)より。<br><br>(糸井重里さんと木川眞(ヤマトホールディングス社長)の対談「クロネコヤマトのDNA。」の一部です)<br><br>【糸井重里:最初にうかがった、救援物資を運ぶチームのことについて、もうすこしくわしくお話しいただけますでしょうか。<br><br>木川眞:「救援物資輸送協力隊」ですね。<br><br>糸井:そう、それです。その活動は現在も続けられている。<br><br>木川:続けています。<br><br>糸井:救援物資がちゃんと被災者のみなさんに届くのか、ということについては、心配されたり話題になったりいろいろなかたちで言われていますが、実際のところはどうなんでしょう。<br><br>木川:それはですね、救援物資をどこにどれだけ送るか、送った物をどうやって管理するか、そういう整理整頓が、できていないケースがやっぱり多いんです。<br><br>糸井:ああ……。<br><br>木川:災害が起きたときには、常に同じことが起きているのですが、救援物資の管理については地方自治体のかたが仕切るわけです。多くの場合そのかたには、ロジスティックス(物流・資材調達)の専門知識がありません。<br><br>糸井:そうでしょうね。<br><br>木川:その一方で、救援物資はどんどん集まってくるわけです。水が来る、食料品が来る、衣類も来る。そしてそれらは、およそ物流の拠点にふさわしくない体育館であったり、公会堂であったり、学校であったり、そういう場所へまずは運び込まれます。ところが、そういう場所は、中は広くていいんですが、出入り口が狭いんです。救援物資はどんどん来るから、どんどんそこに入れられていく。そうするともう、最初に入れられた荷物は出せなくなる。<br><br>糸井:ボトルネックだらけになるんですね。<br><br>木川:そう。必然的に「後入れ先出し」になるんです。後から来たものを最初に出す。いちばん最初に入れたものが食料品だったら、賞味期限が切れてしまいます。<br><br>糸井:うーーん……。<br><br>木川:ほしい物がいちばん奥にあるとわかっていても出せない。それどころか、奥に何があるのか誰も知らない状況になる。<br><br>糸井:簡単にそうなってしまいそうですね。<br><br>木川:あとは、これ、ほんとうに、とある避難所で見たんですが、そこにはひとりも赤ちゃんがいないのに哺乳瓶と粉ミルクの段ボールがどーんと置いてあったんです。つまり、それを必要とするところはほかにあるのに、まったく別のところに行ってしまっている。<br><br>糸井:せつないなぁ。<br><br>木川:そういう状況をロジスティックスの専門家が仕切ると、うまく回転がはじまるんです。たとえば、気仙沼市では、「ぜんぶヤマトに任せる」ということになりました。もう自分たちの手に負えないと。それで、大混乱してる状態でぼくらが引き受けて、二日目には完璧に「どこに何がいくつあるか」をパソコンに入力し、その置き場所のレイアウトも完了しました。<br><br>糸井:所番地をつけたわけですね。<br><br>木川:そう、所番地をつけた。すると、歯ブラシ一本とか、長靴一足とか、ほしい物をすっと出してお渡しすることができるようになりました。<br><br>糸井:たった二日で。<br><br>木川:忘れてはいけないのが、自衛隊の方々の協力です。ヤマトがその場を仕切ると決まってから、自衛隊のみなさんがですよ、ぼくらの支配下に入って、指示通りに動いてくれたんです。これはね、ほんとに……。<br><br>糸井:すごいっ! もう、立ち上がって拍手したいですよ(笑)。<br><br>木川:ひと言の文句もなしに、われわれの指示で動いてくださる。自衛隊っていうのはすごいな、と。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br> この対談は、2011年の7月7日に行われたものです。<br> ヤマトホールディングスは、東日本大震災に対して、「宅急便1個につき、10円の寄付」を行うことを表明しました。<br> これは合計130億円から140億円の寄付となり、年間純利益の4割くらいにあたるそうです。<br><br> この糸井さんと木川さんの対談を読んで、僕がいちばん印象に残ったのは、「救援物資の運用のノウハウ」の話でした。<br> あの震災を受けて、たくさんの救援物資が現地に送られたのですが、いくらたくさん「モノ」があっても、それを運用する技術がなければ、ロスばかりになってしまうんですね。<br><br> 救援物資が集められた被災地の公会堂や体育館について、「中は広くていいんですが、出入り口が狭いんです。救援物資はどんどん来るから、どんどんそこに入れられていく。そうするともう、最初に入れられた荷物は出せなくなる」というのは、言われてみれば、確かにそうだよなあ、と。<br>そのため、「後入れ先出し」になってしまって、最初に運び込まれた物資は、ずっと死蔵されることになります。<br>そういう物資をうまくコントロールするのは、まさに「クロネコヤマトのお家芸」なんだよなあ、と。<br>もちろん、いざというときのために、公務員にそういうスキルがあれば、それに超したことはないのでしょうけど、現実的には、そこまで要求するのは難しいだろうし、その専門家を常に雇っておけるほどの余裕もないでしょう。<br><br>それにしても、その運用を、わずか2日間で円滑にした、「クロネコヤマト」のロジスティックス(物流・資材調達)の専門家たちはすごい。<br>日頃、あれだけ多くの宅急便の荷物を管理することにより、莫大なノウハウが蓄積されているのですね。<br>「専門家」が介入するだけで、こんなに違うものなのか……<br>そして、その必要性にいちはやく気づき、協力を申し出て、自衛隊もその指示に従ったということも。<br><br>「支援」といっても、いろんな形でのやりかたがあって、モノを送るだけでは、なかなかうまくいかないところもあるのだなあ、とあらためて考えさせられる話でした。<br>お金やモノ以外にも、自分が日常的にやっている仕事が、被災地への「支援」に役立つことって、まだまだあるんじゃないかな。<br>
「人間の大半って絶対に褒められて伸びるタイプだと思いますよ」
2012-06-01T00:00:00+01:00
2012-06-01T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20120601
『CIRCUS』2012年6月号の特集「なぜか好かれる人の仕事術」の志村けんさんと岡村隆史さんの対談の一部です。<br><br>【岡村隆史:やっぱりスタッフって大事ですよね。でも、スタッフにそうやってついて来てもらうのって難しいと思うんですよ。<br><br>志村けん:基本的に、どうやったらいいかっていうのは自分でやって見せるしかないよね。それを見て「ああ、じゃあ俺もやらなきゃ」って思ってくれるのが一番いいことだよ。自分でやらないで、頭ごなしに「あれしろ、これしろ」って言ったって聞く気になれないもん。「頑張れよ」って言ったって、何を頑張るんだってことでしょ。だから、まず自分が頑張らないといけない。セットでも衣装でもなんでも「これがやりたいから、こう言ってるんだよ」っていうことを見せなきゃいけないじゃん。言うんだったら、ちゃんとしたものを見せないと人はついて来ないよ。それで、優秀な人のところには、優秀な人が集まってくるんだよ。反対にダメな奴のところには、どんどんダメな奴が集まってきちゃう。<br><br>岡村:志村さんは、スタッフを叱ったりします?<br><br>志村:うん。でも、いい大人はね、叱るときは陰で叱るんだよ。人前で「なんだこれ!」とか言わない。俺は、なんか言うときは、なるべく陰に行って言うね。<br><br>岡村:みんながいる前で、「何やってんだ、バカ野郎!」って言ったって萎縮するだけですもんね。ほんまにちゃんとした人って、終わってからこっそりと「ちょっと」って呼んで、「あそこ、こうこうこうで、これはあかんよ」って言うんですよね。恫喝しても、現場の空気が悪くなるだけですから。<br><br>岡村:やっぱりね、ときには叱るのも必要だと思うんですけど、僕は褒めるほうが大事だと思うんですよ。普通に褒められたらうれしいですもん。「あれ見ましたけど、すごく面白かったですよ」って言われたら、うれしいですもん。<br><br>志村:褒められんのに弱いな、俺たち。大好きだもんなあ。<br><br>岡村:でもこの年になると、周りもなかなか褒めてくれないですよ。上の人はもっと気づいたほうがいいんじゃないですか? 怒るだけじゃなくて、「あれよかったね」って言うことを。特にお笑いの人なんて、褒められて伸びるタイプばっかりだから。<br><br>志村:「あれ笑ったねえ!」って言われたときも、「そうか?」って素っ気なく言いながら、腹の中ではうれしくて笑ってるからね。<br><br>岡村:「面白かったよ、ありがとう!」って。それ目指してやってるわけですから。でも結局、今日も100点は出されへんかったかも分かんないけど、全力出したぞっていうときも、スタッフは「お疲れっしたー!」で終わっちゃうじゃないですか。もっと「あそこよかったですね」とか言ってくれてもいいんちゃう?って思ったりするんですけど。<br><br>志村:俺、仕事が終わったら必ず飲みに行くんだけど、みんな普通に話してるだけっていうのが多いね。「おまえ、番組のこと、なんか言わないの? 少しは触れろよ! あのタイミングよかったですねとかって」って言ったら「いや、今さら志村さんにそんな。面白くて当たり前ですから」って。「それは違うんだよ!」って言ったの。違うよ。<br><br>岡村:飢えてますよね。褒められることに。<br><br>志村:うん。<br><br>岡村:「もっとできるやろ」って言われてやる気になる人もいるかも分からないですけど、人間の大半って絶対に褒められて伸びるタイプだと思いますよ。大人になってあんまり叱られても「なんやねん!」って思うだけやと思うんですよ。子供のときって、大きな声出しただけでも褒められたりするやないですか。<br><br>志村:「おまえは声が大きいなあ!」ってね。<br><br>岡村:「大きい声で挨拶できたね」とか。それが大人になったら、あら探しばっかりで、「お前、何してんだ」って言われるわけです。これじゃあ、成長しないですよ。褒められるのが一番のやる気の元ですよ。<br><br>志村:俺なんて、自分が褒められるとうれしいのが分かってるから、相手も絶対に褒めるもんね。共演者にも「今日あそこ面白かったな、いいタイミングだったよ」とか言うよ。<br><br>岡村:同業者だと、分かったりしますからね。、一緒にやってて。うわ、今日すごくうまいこと回ったとか、いろいろかみ合ったなとか。「お疲れっしたー!」だけの人には、逆にこっちが言うたりしますもん、「今日、大丈夫でした?」とか。そうすると「ぜーんぜん、大丈夫です!」。そうじゃなくて! でも褒めてはくれないですね。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br> この対談のなかには、岡村さんが長期休養されていたときの話も出てきます。<br>岡村さんは、「なんで自分ばっかりこんなに頑張らなくてはならないのか」という気持ちがすごく強かった、と休養前の状態を振り返っておられます。<br><br> この「みんな、誉められたほうがやる気も出るし、成長する」というのを読んで、僕も「やっぱりそうだよね!」と嬉しくなりました。<br> もちろん、厳しく指摘しなければならない場合もあるのですが、志村さんは、「そういうときは、みんなの前ではなく、陰でそっと言うようにしている」そうです。<br> 志村さんといえば、お笑いの世界のなかでは「帝王」であり、誰も逆らえない存在なのではないかと思います。<br> でも、そんな人だからこそ、かえって気を遣うところもあるのだなあ、と。<br>「できるヤツが、まず完成したものを示さないと、周りはどうしていいのかわかるはずがない」というのは、「自分がその完成品を作り上げる責任者なのだ」という強烈な自負心のあらわれでもあるのです。<br> そして、「できる人間の責任」を、志村さんは背負っているのだな、と。<br>他人には優しくしなければならない、でも、責任者としての自分には、厳しくしなければならない。<br><br> ただ「褒める」だけなら、そんなに難しいことではありません。<br> でも、「褒めるべきところを、的確に褒める」というのはそんなに簡単なことではありません。<br>「褒める」っていうのは、「叱る」よりラクなことだと思われがちだけれど、相手のことをしっかり見ていないと、褒めるポイントって、なかなか見つからないものなんですよね。<br> 相手だって、有能な人間であればあるほど、ヘンなところを褒められたら、かえって「この人には『見えてない』のだな」という気分になるはずです。<br> なんといっても、自分が上の立場になればなるほど、部下の「足りないところ」ばかりが目につきやすいものです。<br><br> しかし、率直に言うと、志村さんみたいに「仕事のあとは、飲みに行ってコミュニケーション!」というタイプの上司は、部下にとっては、ちょっとつらいところもありますよね。<br> みんな「ようやく仕事が終わったのだから、飲み会くらいは、それ以外の話をしたい」と考えていても、「仕事人間」の志村さんは、それを受け入れられない。<br> でも、そのくらいじゃないと、お笑いの世界で、ずっとトップに立ち続けることはできないのでしょうね。<br>
「モテるって特別になるより、変なことが少なくなることじゃないですか」
2012-05-25T00:00:00+01:00
2012-05-25T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20120525
『どうやらオレたち、いずれ死ぬっつーじゃないですか』(みうらじゅん・リリー・フランキー共著/扶桑社)より。<br><br>(みうらさんとリリーさんの対談本から。「結婚・離婚・浮気とは?」という項の一部です)<br><br>【リリー:前に夕方のニュースで婚活している女性の特集をやってて、婚活パーティに頻繁に通っている女の人2人に焦点を当ててたんです。<br> 一人は「この女の人、自分のこと綺麗だと思ってるんだろうな」っていう感じの、そうでもない人で。その人が、女性のほうが参加費の高い「男性は医者限定」っていうパーティに行くんだけど、やっぱりモテてない。それでもその人は、「理想っていうのは、ある程度高いところから始めないと、どうせ目減りするんだから」って言うわけですよ。年収に関しても「高い男から当たっていかないとダメなんだ」みたいなことばかり言って、要は自分をどれだけ高く売るかばかり考えてる。この人がモテない理由はちょっと救いようがないじゃないですか。<br> で、もう一人の女の人は、ちんちくりんのメガネの女の人なんですけど、この人がモテない理由っていうのは、とにかく理屈っぽくなってるからなんです。本当は暗い人なんだろうけど、そういうところに行ったらしゃべらなきゃと思って、相手がしゃべる暇ないぐらいしゃべってるんですよ。相手が何か言ったら「あ、今ツッコまなきゃ」みたいに。『アタック25』でやり慣れていない人のガッツポーズを見た感じ。で、その人は家ではいつもメガネをかけてるのに、パーティではかけてないんです。歯の矯正にも行ってるし、ちゃんと女磨きをしてるんでけど、その前にメガネを外すとすごい視力が悪いみたいで、相手の前でその男の人のアンケートを顔にくっつけるようにして読んでるんですよ。棟方志功みたいに。その様子を見た男は「なんだこの人!?」ってちょっと引いてる。ほかにも、綺麗な恰好をしてきてるんですけど、お化粧するときもメガネを外してるから、眉毛が福笑いみたいになってて(笑)。ああいうの見ると、なんでもっとラクに考えられないのかなって不思議になりますよね。歯の矯正もして、お洒落もし、一生懸命自分を磨いてるんだけど……。「まずコンタクト買えば?」って(笑)。でも、こっちの人のほうがまだ、未来を感じました。<br><br>みうら:オレも目が悪いからわかるけど、あれ、本人は意外と気づかないってね(笑)。<br><br>リリー:コンタクト買えば、アンケートも近付けなくても読めるし、眉毛ももうちょっとマシに描けるはずなのに。簡単なことがぼっこり欠落してて。ひとり「あんた、コンタクトにすれば?」っていう友達がいれば、その人モテるようになりますよ。そういう意味でも、モテるって特別になるより、変なことが少なくなることじゃないですか。平凡になるってことですよ。平凡な人間が一番モテる。<br><br>みうら:変わってる人がモテるなんて、ないからね。変わってるけどお金があるからモテるとか、ほんの一例だもんね。<br><br>リリー:変わっている人のことが好きな人は、性癖として好きなわけで。だって、女の人に対する男の趣味とか好みって平凡じゃないですか。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br> この二人は、「変わってる人なのにモテている」じゃないか!<br> なんて心の中で毒づきながら読んだのですが、「なるほどなあ」と納得せざるをえない話ではあります。<br><br> 前者の「要は自分をどれだけ高く売るかばかり考えてる」女性がモテないっていうのはよくわかります。なんか、「妥協してあなたと結婚してあげたんだから」とか言われそうだものね。<br> でも、こういう「妥協することを前提として、目標を高く設定するのが『向上心』だと考えている人」って、少なくないですよね。<br> これは、恋愛や結婚に限ったことじゃなくて。<br> 「絶対に医者や弁護士としか結婚しない!」というのなら、それはそれで潔いとは思うのですが。<br><br> 後者の女性の話、僕も目が悪いので、なんだか他人事には思えませんでした。たしかに「本人は気づかない」のですよね、自分にとっては、それが当たり前になってしまっているから。<br> このひと、ものすごくがんばっているんだけれど、メディアで伝えられているような「お金がかかる、よりハイレベルな自分磨き」にばかり夢中になってしまって、足もとが見えなくなってしまっているのでしょう。<br> <br> でも、そういうのって、周囲からは一目瞭然なんだけど、本人はよくわからなかったりするものなんですよね。だって、「私はすごくがんばっている」のだから。<br>「あんた、コンタクトにすれば?」って言ってくれる友達っていうのは、すごく大切なんだけど、そういう友達って、いそうでいないものではあります。<br> <br> 「モテるって特別になるより、変なことが少なくなることじゃないですか」というリリーさんの言葉、僕が20歳のときに読んだら、「そんなことねーよ!」って感じたはずです。<br> でも、いま読むと、たしかにそうだよなあ、と。<br> 芸能人や大金持ちの実業家、プロスポーツ選手などの「特別な世界の人」を除けば、「個性的すぎる人」よりも「どこがいいのかよくわからないけど、困った性癖や問題行動が少ない、安定した人」のほうが、モテるし、結婚相手として選ばれているような気がします。<br><br> しかし、いろんな人を見ていると、人間にとって「平凡になる」というのは、簡単なようで、けっこう難しいことなのだとも感じます。<br> マスメディアで伝えられる「平均的な日本人」が身の回りにほとんどいないのと同じように、どんな人にも「変わったところ」ってあるんですよね。もちろんそれは「程度と迷惑度の問題」なのですが。<br>
「おまえの言い分はわかった。ただし、名前は書け」
2012-05-15T00:00:00+01:00
2012-05-15T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20120515
『わたしが子どもだったころ』(NHK「わたしが子どもだったころ」制作グループ編・ポプラ社)より。<br><br>(劇画家のさいとう・たかをさんの項から)<br><br>【そのころ出会った大人で忘れられないのは、東郷という名の教師です。ある日、東郷先生は、学校でも札付きのワルだったわたしに声をかけてきました。<br><br>「斎藤だったかな」<br>「なんや、新米の教師か。いじめられへんようにおれにあいさつにでも来たんか」<br>「そんなわけないだろう。ちょっといいかな。東京から来た東郷だ。よろしくな」<br>「よろしくなやあるかい。なにをすかしとるんじゃ」<br>「斎藤、なんでおまえは答案用紙を書かないんだ」<br>「知れとるわ。こんなもん丸暗記したらすぐ解けるクイズやないか。おまえら大人が勝手に決めたルールやろが。だから書かへんのじゃ」<br>「おまえの言い分はわかった。ただし、名前は書け。白紙で出すという責任をおまえがとらなくちゃいけない。それは大人も子どもも同じだぞ。おまえみたいな生き方をしていると、常に後ろを気にしていなくちゃいけないぞ。ルールは従うものじゃない。守るものだ」<br><br> あっ、人間社会というのはそんなものかと。六法全書を見ても「人を殺してはいけない」とは書いてありません。「人を殺したらこんな目に遭わせますよ」と書いているのであって、つまり善とか悪は約束事なんですね。その約束事からはみ出すなら、自分のなかに基準を持たなきゃいけないということがわかったんです。<br> デューク東郷の場合も、善と悪の基準は自分のなかにあり、他者の善悪の観念とは関係がない。彼は人の命を奪ったあと、足下にいる蟻を踏まないようにまたいだりします。つまり、人間の命も蟻の命も同じなんですよ。そういう人間は現実の社会では生きられません。はみ出し者でも生きられたらいいなという感覚で、わたしは『ゴルゴ13』を描いたんでしょうね。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br> さいとう・たかを先生は、中学時代、かなりの悪童だったそうです。<br>【仲間とつるんで進駐軍のジープにヤジを飛ばし、カメラ屋を襲撃し、花札をして遊ぶ。けんかに明け暮れて、学校は平気でさぼり、テストは白紙で出す。とにかく悪かった。】<br> そんなさいとう先生の「忘れられない大人」のエピソード。<br><br> これを読んで、すごく勉強になりました。<br> ああ、「ルール」って、こういうふうに子どもに教えるべきなのかもしれないな、って。<br>「なぜ、テストを白紙で出してはいけないのか?」<br> その問いに関しては、「テストの成績が悪いと、将来困るから」なんて答えざるをえないのかな、と思っていたのですけど、それよりもこの「白紙でも出すのは構わないから、自分の名前は書け」というほうが、なんだかこう、ずっしりくるんですよね。<br> 「自分の行動には、責任を持たなくてはならない」<br> でも、それができる人というのは、けっこう少ないんじゃないかと思うのです。<br> 僕だって、ネットにものを書くときに、匿名と実名とで、同じことを書けるかどうか、自信がありません。<br> たかが名前を書くかどうか、それだけのことのようで、これは、けっこう重いことなのではないかと。<br> <br> まあ、この言葉の重さを中学時代に理解したさいとう先生も、「自分で責任を持って生きようとしていた人」だったのでしょうね。<br> 同じ話を聞いても、「じゃあ、名前書いておけばいいんだろ」って、開き直るだけの人も、少なからずいるはず。<br><br> それにしても、言われてみると、たしかに刑法には「人を殺したら、こういう罪になって、量刑はこのくらい」と書いてあるだけなんですよね。<br> 「殺すな」とは書いてない。<br> 法律があっても、人が人を殺すことは「可能」ではあるのです。<br> それでも、『北斗の拳』みたいな世界にならないのは、「倫理」や「道徳心」があったり、「人を殺すことによって、罪に問われることは割にあわない」ので、それを実行に移す人は、ごく少数です。<br> 戦争になれば、「敵なら殺すのも正義」になったりするわけですけど。<br><br> 「おまえみたいな生き方をしていると、常に後ろを気にしていなくちゃいけないぞ」と言われたさいとう先生が、「俺の後ろに立つな」という決めゼリフの主人公を描き続けている、それもまた、何かの運命だったのかもしれません。<br>
「仮にあなたが1980年からゲームを作っていたら、『スーパーマリオブラザーズ』や『ドラゴンクエスト』を作れたと思う?」
2012-05-08T00:00:00+01:00
2012-05-08T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20120508
『桜井正博のゲームを作って思うこと』(桜井正博著・エンターブレイン)より。<br><br>(『ファミ通』2010年4月1日号に掲載された桜井さんのコラム「初めの一歩と競争と」の一部です)<br><br>【激しい競争原理の中、勝てるわけがないと思う。そう考えるのは、賢いというべきなのかどうか?<br> 現役の開発者になったとしても、蔑みのような愚痴をあちこちで聞きます。人気作だから売れて当たり前だとか、そうじゃないから自分たちが作るものは売れないとか。売れることがわかっているから、宣伝を多く打ってもらえるとか。<br> そういう人たちにこそ言いたい。「仮にあなたが1980年からゲームを作っていたら、『スーパーマリオブラザーズ』や『ドラゴンクエスト』を作れたと思う?」と。<br> YESとは言えないでしょう。人気シリーズは、最初のオリジナルが独創性を放ち、そのときの”競争”に勝ち抜き、かつファンに支持されたからこそ生き続けていることを忘れてはならないと思います。逆に言えば、どんな人気シリーズであっても、誰かが何もない状態から最初のオリジナルを作ったということ。<br> ゲーム作りはどう転んでも競争です。各開発者は選手であって、みずからのワザと互いのチームワークで高みに上っていくわけです。選手だから、隣りの人より優れようとするふだんの努力を忘れてはならない。一方で、隣りの人との協力を大事にしなければならない。勝ち馬に乗ろうとすれば、誰もにも勝つことができません。乗ったものを、勝ち馬にするんです!<br> わたしはふだん、競争で物事を計るのは反対なのですが、新社会人や新入生のために書いてみました。いい季節ですしね。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br> 桜井正博さんは、『星のカービィ』シリーズや『大乱闘スマッシュブラザーズ』などの作品を持つ、日本を代表するゲームデザイナーのひとりです。最新作はニンテンドー3DSの『パルテナの鏡』。<br> ちなみに、このコラムには、『テトリス』の写真に「これを売ろうとしたのも、当時は相当な冒険だったと思うのですよ」というコメントが添えられています。<br> たしかに、いまとなっては、『テトリス』は売れたのが当然というふうに記憶が改変されてしまっているのですが、『テトリス』がはじめて日本で発売されたときには、「こんなシンプルなゲーム、わざわざ家庭用ゲーム機やパソコンでやる必要あるの?お金出して買う人がいるのだろうか?」なんて僕も思いました。<br> ところが、『テトリス』はシンプルであるがゆえに多くの人に支持され、大ヒットゲームとなったのです。<br> ここで桜井さんが例に挙げておられる『スーパーマリオ』だって、最初に発売されたときにはこんなに面白いゲームで、歴史に残るなんてプレイヤーたちは予想していなかったし(最初に遊んだ時には、背景だと思っていた土管に入れたことに驚きましたが)、『ドラゴンクエスト』も、海外の歴史的RPG『ウルティマ』の劣化コピーのような印象を持っていたものです。<br><br> 「歴史的な大ヒットゲーム」の多くも、第一作から順風満帆なわけではありませんでした。<br> 「シリーズ作品の続編じゃないと売れない」のは市場の事実なのかもしれないけれども、たしかに、どんなシリーズ作品にだって、「最初の作品」があります。<br> そして「最初のオリジナルに独創性があった」からこそ、シリーズ化されることのなったのです。<br> 大部分のゲームデザイナーは、1980年からゲームをつくっていたとしても、『ドラゴンクエスト』をつくることはできなかったはずです。<br> 逆に、堀井雄二さんがもっと若かったら、この2012年からゲームをつくったとしても、「オリジナリティあふれるゲーム」をつくってみせたのではないかと思います。<br><br> 勝ち馬に乗ろうとすれば、競争が激しく、ようやく乗れたと思ったときには、レースが終わっているかもしれません。<br> たしかに、大事なのは「乗ったものを、勝ち馬にする」ことなのでしょう。<br> どんなに厳しい状況でも。「戦わなければ、勝てるわけがない」のだし。<br>
「ゆっくり走るようになれるのも才能です」
2012-04-17T00:00:00+01:00
2012-04-17T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20120417
2012年4月15日の『日本経済新聞』の文化欄に掲載された、松井今日子さんの「馬が教えること」というエッセイの一部です。<br><br>【乗馬愛好家の代弁は概ね以上に尽きるが、日本の場合、馬を愛する人ならむろん競馬ファンのほうが圧倒的にメジャーだろう。馬の生産も本来は競馬でも活躍を期待されたサラブレッドが中心である。従って日本では乗馬クラブにもサラブレッドが比較的多かったりする。わがクラブには競馬ファンならずともご存知であろう、シンボリルドルフの息子やハイセイコーの孫娘がいて、最初はそのことにびっくりさせられた。<br> 競走馬で子孫が残せるのはごくわずかのエリートだが、その選りすぐりのエリートの子孫でも競争馬で通用しないケースのほうがはるかに多いらしい現実を、私は乗馬を通じてまざまざと知らされた。以来、人間社会でも安易な世襲なぞ決して許されていいわけがないと思うようにもなった。<br> そのことに関してはまた、習い始めた頃に、とあるインストラクターから聞かされた今に忘れがたい話もあり。私は馬上でそれを耳にした。ほかにも何人かが馬に乗って、ただグルグルと馬場を歩きまわっていた時のことだ。馬はいずれも競馬界の落ちこぼれのごとく緩慢な動きを見せていたが、インストラクターは唐突に「この子たちはみんなエリートなんですよ」と穏やかな口調で話し始めた。<br><br> サラブレッドはもともと速く走ることを目的に作られた品種なので、アマチュアの乗り手が耐えられるようなスピードで走るのはむしろ難しい。故に競馬界を引退したサラブレッドの多くは、訓練を受け直しても一般人の乗用馬にはなれずに、虚しく命を落としてしまうのだという。<br>「ゆっくり走るようになれるのも才能です。だからこの子たちはエリートなんです」と最後は断固たる口調で締めくくられた。コペルニクス的転回ともいえるその発言を聞いて、私は自身でも意外なほど強く心を打たれたのだった。<br> ゆっくり走れるのも才能とは、実に言い得て妙で、あらゆる物事に関しての暗喩ともなる。個人の生き方、組織の運営、さらには社会のあり方にもアナロジーが適用される。<br> 命をつなぐ方法は、何も競争で速く走って勝ち残るのみではないのだ。そうした価値観の転換は人を生きやすくさせるかもしれない。また地球の未来にとっても必要なことではないか、と思ったりする。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br>「ここ数年、週末は乗馬をして過ごす」という松井さん。<br> 僕は競馬大好きなので、この話には「なるほどなあ」と考えさせられました。<br> 競争馬というのは「いかに速く走るか」で価値が決まってしまう生き物ではあるのですが、馬のなかには「身体能力は優れているのに、気持ちの面で競馬という競争に向かない馬」なんていうのもいるんですよね。<br> 運動オンチの僕は、「サラブレッドのなかにも、『足は遅いけど、すごく頭がいいヤツとか、優しいヤツ』がいたりするんじゃないかな、でも、そいつらの競走馬としての運命と生命は……」などと考えてしまうこともあります。<br><br> でも、このインストラクターの話を聞くと、「世の中には、速い馬だけが必要なわけじゃない」ということがよくわかります。<br> 引退した競争馬の「転用先」が「乗馬」になっていることは少なくないのですが、おそらくその多くは「乗馬には向かない馬」なのでしょう。<br> もともと、プロの騎手によって、極限のスピードを引き出されるようにレースで乗られているのですから、そう簡単に「一般の人を優しく乗せる」という自らの存在意義の転換に適応できる馬は少ないはずです。<br> それこそ、相手は馬ですから「やりがいを話して、説得する」というわけにもいかないでしょうし。<br><br> そのなかで、一部の「ゆっくり走る才能」「自分に乗る人間の指示に素直に従う才能」を持った馬だけが、「乗用馬」として生き残っていくことができるのです。<br><br> 僕はこれを読みながら、「ああ、たしかに『ゆっくり走るようになれるのも才能』だなあ」と感心しました。<br> もちろん、「速く走ることを追求する人」は必要なのでしょうけど、「乗っている人の反応を確認しながら、(レースに比べたら)ゆっくり走ることができる人」も必要なのです。<br> 馬の場合は、残念ながら、乗馬を含めても「生き方」は限られてしまうけれど、人間の場合には、もっと多様な価値観がある。<br><br> まあ、「地球の未来」なんていうと大きな話になりすぎるのですが、「ゆっくり走るようになれるのも才能です」という言葉は、知っておいて損はないはず。<br>「速く走れる人は、ゆっくり走ることができる」と思われがちなのですが、「ゆっくり走っても、ストレスで暴発しない」というのは「速く走りたい人」にとっては、そんなに簡単じゃないんですよね。<br> みんなが速く走ろうとしていればいるほど、「ゆっくり走ることができる」のは、武器にもなりうるのです。<br>
「正しさ」への同調圧力によって、「正しい」ことをするべきではありません。
2012-03-14T00:00:00+01:00
2012-03-14T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20120314
『「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について』(高橋源一郎著・河出書房新社)より。<br><br>(高橋源一郎さんが、2011年3月21日にツイートされた「『正しさ』について――『祝辞』」の一部です)<br><br>【あなたたちの顔を見る最後の機会に、一つだけ話したいことがあります。それは「正しさ」についてです。あなたたちは、途方もなく大きな災害に遭遇しました。確かに、あなたたちは、直接、津波に巻き込まれたわけでもなく、原子力発電所から出る炎や煙から逃げてきたわけでもありません。<br> けれど、ほんとうのところ、あなたたちはすっかり巻き込まれているのです。なぜ、あなたたちは「卒業式」ができないのでしょう。それは、「非常時」には「卒業式」をしないことが「正しい」といわれているからです。でも、あなたたちは納得していませんね。<br> どうして、あなたたちは、今日、卒業式もないのに、少し着飾って、学校に集まったのでしょう。あなたたちの中には、少なからず疑問が渦巻いています。その疑問に答えることが、あなたたちの教師として、わたしにできる最後の役割です。<br> いま「正しさ」への同調圧力が、かつてないほど大きくなっています。凄惨な悲劇を目の前にして、多くの人たちが、連帯や希望を熱く語ります。それは、確かに「正しい」のです。しかし、この社会の全員が、同じ感情を共有しているわけではありません。<br> ある人にとっては、どんな事件も心にさざ波を起こすだけであり、ある人にとっては、そんなものは見たくもない現実であるかもしれません。しかし、その人たちは、いま、それをうまく発言することができません。なぜなら、彼らには、「正しさ」がないからです。<br> 幾人かの教え子は、「なにかをしなければならないのだけれど、なにをしていいのかわからない」と訴えました。だから、わたしは「慌てないで。心の底からやりたいと思えることだけをやりなさい」と答えました。彼らは、「正しさ」への同調圧力に押しつぶされそうになっていたのです。<br> わたしは、二つのことを、あなたたちにいいたいと思っています。一つは、これが特殊な事件ではないということです。幸いなことに、わたしは、あなたたちよりずっと年上で、だから、たくさんの本をよみ、まったく同じことが、繰り返し起こったことを知っています。<br> 明治の戦争でも、昭和の戦争が始まった頃にも、それが終わって民主主義の世界に変わった時にも、今回と同じことが起こり、人々は今回と同じように、時には美しいことばで、「不謹慎」や「非国民」や「反動」を排撃し、「正しさ」への同調を熱狂的に主張したのです。<br> 「正しさ」の中身は変わります。けれど、「正しさ」のあり方に、変わりはありません。気をつけてください。「不正」への抵抗は、じつは簡単です。けれど、「正しさ」に抵抗することは、ひどく難しいのです。<br> 二つ目は、わたしが今回しようとしていることです。わたしは、一つだけ、いつもと異なったことをするつもりです。それは、自分にとって大きな負担となる金額を寄付する、というものです。それ以外は、ふだんと変わらぬよう過ごすつもりです。けれど、誤解しないでください。<br> わたしは「正しい」から寄付をするのではありません。わたしはただ寄付をするだけで、偶然、それが、現在の「正しさ」に一致しているだけなのです。「正しい」という理由で、なにかをするべきではありません。「正しさ」への同調圧力によって、「正しい」ことをするべきではありません。<br> あなたたちが、心の底からやろうと思うことが、結果として、「正しさ」と合致する。それでいいのです。もし、あなたが、どうしても、積極的に「正しい」ことを、する気になれないとしたら、それでもかまわないのです。<br> いいですか、わたしが負担となる金額を寄付するのは、いま、それを心からすることができなあなたたちの分も入っているからです。30年前のわたしなら、なにもしなかったでしょう。いま、わたしが、それをするのは、考えが変わったからではありません。ただ「時期」が来たからです。<br> あなたたちには、いま、なにかをしなければならない理由はありません。その「時期」が来たら、なにかをしてください。その時は、できるなら、納得ができず、同調圧力で心が折れそうになっている、もっと若い人たちの分も、してあげてください。共同体の意味はそこにしかありません。<br> 「正しさ」とは「公」のことです。「公」は間違いを知りません。けれど、わたしたちはいつも間違います。しかし、間違いの他に、わたしたちを成長させてくれるものはないのです。いま、あなたたちが、迷っているのは、「公」と「私」に関する、永遠の問いなのです。<br> 最後に、あなたたちに感謝の言葉を捧げたいと思います。あなたたちを教えることは、わたしにとって大きな経験でした。あなたたちがわたしから得たものより、わたしがあなたたちから得たものの方がずっと大きかったのです。ほんとうに、ありがとう。<br> あなたたちの前には、あなたたちの、ほんとうの戦場が広がっています。あなたを襲う「津波」や「地震」と、戦ってください。挫けずに。さようなら、善い人生を。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br> あれから、1年と少しが経ちました。<br> れは、東日本大震災によって卒業式がなくなってしまった明治学院大学国際学部の卒業生たちに、高橋さんが贈ったものです。<br> 今日は「ホワイトデー」なのですが、そういえば、去年は「ホワイトデー」なんてやってていいのか?とか思いながらも、結局「お返し」をしていたのを思い出しました。<br> 今年は、被災地以外では、震災前の「例年通り」卒業式が行われているようです。<br><br> あのときは、「世の中がこんな状況では、卒業式ができなくてもしょうがない」と、僕は考えていました。<br> でも、いまから考えると、直接被害を受けた地域以外で「自粛」されたのが正しかったのかどうか、あまり自信が持てないのです。<br><br> あれから1年が経っても、「正しさ」をめぐる争いに、決着はついていません。<br> 原発反対派と維持派、放射線の影響に対する議論など、「自分の正しさ」を主張し、「間違っている人たち」を打ちのめそうとする人が大勢います。<br> その議論が、本当に「みんなを幸せにするため」ならば、どこかに「落としどころ」があるはずなのに、むしろ、お互いの距離は広がっていく一方のようにすら思われます。<br><br> 東日本大震災は、これまで40年生きてきた僕にとっては、まさに「未曾有の」ものでした。<br> でも、人間の歴史、少なくとも、記録に残っている歴史だけからみても、同じような「悲劇」を人間はたくさん経験してきました。<br> そして、【人々は今回と同じように、時には美しいことばで、「不謹慎」や「非国民」や「反動」を排撃し、「正しさ」への同調を熱狂的に主張した】のです。<br><br> うまく言えないけれど、僕にも、その「時期」が来ているのだと感じています。<br> だから、できることは、やろうと思う。<br> でもね、やりたくない人、できない人は、無理してやることはないのです。<br> そういう世の中であリ続けることは、すごく大事なことだから。<br>
NHK「のど自慢」でもっとも大切なのは「予選会」
2012-03-02T00:00:00+01:00
2012-03-02T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20120302
『文藝春秋』2012年3月号の特集「テレビの伝説」より。ノンフィクションライター・与那原恵さんが書かれた『「のど自慢」は台湾でも大人気』の一部です。<br><br>【通常の「のど自慢」でもっとも大切なのは「予選会」だとスタッフはいう。出場希望者(15歳以上。中学生除く)は往復ハガキで応募するが、歌う楽曲とともに選曲理由を記す。これが出場の決め手になることは「のど自慢」ファンの間ではよく知られている。家族への感謝、地元愛、よき仲間へ……。また本番のゲスト歌手の持ち歌も予選会出場の可能性が高まるといわれている。NHKは、年齢、男女のバランス、地域性、そしてハガキから読み取れるライフストーリーなどを勘案し、全体のバランスを考え、予選出場者250組を決定するという。徳田アナ(現在の「のど自慢」司会者)は「のど自慢は、読後感が不快でないことが大切なのです」といい、ネガティブな選曲理由の出場者は登場しないのである。<br><br> 土曜日午後1時、予選会がスタート。緊張する出場者をほぐす進行役が盛り上げる。また演奏は本番と同じ生バンドである。250組は、曲目のあいうえお順でステージに立ち、40秒で自動的に終了するが、それでも生バンドをバックに歌うのは気持ちのよい体験になったようだ。歌い終わると、舞台下にいる徳田アナとディレクターの短いインタビューを受ける。40代女性はこう話す。「私たちすごく大切に扱われているって感じました。うまいへたで合格・不合格が決まるわけじゃないから、落ちてもいいの」<br><br> 午後6時過ぎ、高校生から85歳のおばあさんまで、本番出場者20組が発表された。さっそく20組は別室に集められ、「みなさんは今回の661組の全応募者、さらに予選会の250組から本番出場を果たしたのです。日本中が見ているのど自慢の主役は、みなさんです」と高らかに宣言される。また本番は予選会と同じ服装であることが条件だと釘をさされる。「衣装もふくめて合格したのです」。キテレツな衣装やブランドロゴ入りの服の人はいない。<br><br> 全員まだ実感が湧かない様子なのは、250組を目の当たりにした余韻なのかもしれない。本番出場者はこのあと徳田アナらのインタビューを受ける。つづいてひとりずつピアノ・編曲担当の前で歌う。アレンジャーの西原悟はキーを細かく調整したり、歌いやすいように前奏を短くするなど、ひとりひとりに合わせた本番用の譜面を翌朝までに仕上げる。<br><br> 出場者全員が会場をあとにしたのは夜9時過ぎ。しかし帰宅後の彼らは大忙しだ。親戚や知人に連絡をし、祝宴も行われ、ほとんど眠れない一夜になる。この興奮状態が持続したまま、一気に本番へと向かう。<br><br> いっぽうスタッフは、歌う順番など構成を練り上げる会議を行う。トップバッターは元気な人、つづいて地元の産業を象徴する職業の人、中盤でしみじみとさせ、後半には朗々と歌い上げる人を登場させる、などの「演出」である。とはいえ定型があるわけではなく、毎回頭を悩ますとスタッフはいう。また出場者が舞台上に座る席の配置にも神経を使う。ムードメーカーになる人を中心にし、お年寄りの隣には気遣いのできる若者に座ってもらうなど、緻密に計算することが出場者の結束にむすびつく。それぞれの個性を見抜くこともスタッフの腕だが、肝心なのはスタッフが取り仕切っているように感じさせないことだ。<br><br> じっさい翌朝7時50分に再び集合した20組には、前夜とはまるで違う親密な空気が生まれている。30代男性は「ここで出会った仲間たちと番組を成功させるために自分のやるべきことをやります。出場できなかったたくさんの人たちのためにも」と話す。たった一夜にして、与えられた役割を自覚し、助け合い、一発勝負の生放送をぶじに進行させようとの覚悟ができている。「のど自慢」マジックなのか、日本人に備わる資質なのか。<br> 広島放送局の大海紀子ディレクターは「のど自慢とは、昨日まで見ず知らずだった20組が力を合わせて本番を乗り切っていくドキュメンタリーなのかもしれません」と語る。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br>「のど自慢」は、全国各地で「同窓会」が結成されているそうです。<br>この番組で知り合った人たちが、自主的に集まって、お酒を飲んだり、近況を語り合ったり、カラオケで歌ったり。<br> 地元が同じとはいえ、ひとつの番組に一緒に出演したというだけで、こんな「絆」が生まれる番組というのは、他には無いと思われます。<br> いまや、クイズ番組でも「プロのおバカタレント」が幅をきかせていて、「素人」の出番はほとんどありませんし。<br><br> 僕はいままで、「のど自慢」を自分から観ようと思って観たことは一度もないのですが、それでも、実家でいつのまにか流れていたり、病院の待合室で患者さんが観ているのをよく見かけますし、「ほんとうに古臭い番組だなあ」なんて思いながらも、けっこう眺めてしまうものなんですよね。<br><br> 参加希望の素人を集めて、ただ順番に歌わせて鐘を鳴らすだけというシステム、しかもこれだけの長寿番組ですから、「ああ、ラクに作れる番組なんだろうなあ」と思っていたのですが、この記事を読んで驚きました。<br><br> 予選でも生バンドの演奏で歌えるし(40秒間だそうですが)、出演順も大事な「構成」のひとつ。席順まできっちりと決められている。<br> さらに、アレンジャーが、「参加者ひとりひとりのために」本番用の譜面をつくるのです。<br><br> 僕の「シンプルで作るのがラクな番組」だという先入観は、見事に裏切られました。<br> 出演者が順番に出てきて歌い、鐘の数で評価されるというだけのシステムなのだけれど、それで視聴者を楽しませるために、スタッフはここまでの「演出」を行っているのです。<br><br> まあ、「すべて演出」だと思ってしまうと、それはそれで面白くなくなってしまいそうではありますけどね。<br>
AKB48が「新たな芸能タブー」になった理由
2012-02-21T00:00:00+01:00
2012-02-21T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20120221
『タブーの正体!』(川端幹人著・ちくま新書)より。<br><br>【ただ、ジャニーズ型であっても、バーニング型であっても、芸能プロダクションがタブーになる過程にはひとつの共通する構造がある。それは、彼らがメディアを組み込む形で強固な利益共同体を築き上げていることだ。その共同体に取り込まれた者は、そこから排除されることを恐れ、プロダクションに一切さからえなくなってしまう。<br> こうした構造をとてもうまく利用しているのが、今、人気絶頂のアイドルユニット、AKB48だ。AKBのメディア対策は非常に特徴的で、芸能ゴシップを頻繁に掲載している週刊誌や実話誌など、本来は芸能人にとって天敵であるメディアに対して利権を積極的に分配し、自分たちの利益共同体に取り込む戦略をとっている。<br> たとえば、密会写真スクープなどで芸能ゴシップの震源地となることが多い写真週刊誌『フライデー』では、「AKB友撮」という連載に加え、グラビアや袋とじ、付録ポスターという形で、毎号のようにAKBメンバーが登場。さらには、人気イベント「AKB選抜総選挙」の公式ガイドブックも同誌編集部で制作され、講談社から発売されている。<br> もうひとつの写真週刊誌である『フラッシュ』も同様だ。「今週のAKB追っかけ隊ッ!」といった連載に加え、こちらは「じゃんけん選抜」の公式ガイドを出版している。<br> 普段はアイドルと縁遠い総合週刊誌でもさまざまなAKBがらみのプロジェクトが展開されている。『週刊朝日』は「AKB写真館」に続いて「AKBリレーインタビュー」と、長期にわたり連載を続けているし、『週刊ポスト』編集部と小学館は、2011年の公式カレンダーの制作と販売を任されている。<br> 他にも、『アサヒ芸能』のような実話誌から、「日刊ゲンダイ」「東京スポーツ」などの夕刊紙、さらには『BUBUKA』などの鬼畜系雑誌まで、それこそありとあらゆるメディアが、連載、グラビア、記事、写真集の発行といった形で、AKB人気の恩恵に預かっているのだ。<br> AKBの連載をしている週刊誌の編集幹部がこんな本音を漏らす。<br>「AKB48はAKSという会社が運営しているんですが、ここに秋元康さんの弟がいて、雑誌対策をやっている。これまで芸能プロが相手にしなかったゴシップ週刊誌にもエサを与え、味方にするというのは彼の戦略ですね。ただ、それがわかっていても、我々としては乗らざるをえない。というのも、AKBが出ると、雑誌の売り上げが数千から一万部くらいアップする。雑誌が売れない時代にこれはすごく大きいんです」<br> しかも、AKSの戦略が巧みなのは、AKBがらみの単行本や写真集などの出版権を、週刊誌発行元の出版社に与えるだけではなく、週刊誌の編集部を指名して制作させている点だ。このやり方だと、売り上げが編集部に計上されるため、編集部としてはますますAKBへの依存度が高まり、さからいづらくなる。<br> 実際、こうしたメディア対策が功を奏し、AKB48は今や、新たな芸能タブーのひとつに数えられるようになった。AKBにはメンバーの異性関係や運営会社・AKSの経営幹部の問題などさまざまなゴシップが囁かれているのだが、どの週刊誌もそれを報道しようとはしない。『週刊文春』『週刊新潮』だけは活字にしているが、AKBの利益共同体に組み込まれた他のメディアに無視され、完全に孤立している状態だ。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br> 僕も、「なんかどこもAKBばっかりだなあ」なんて思いながら、コンビニの雑誌コーナーを眺めていたのですが、そういえば、たしかに「あらゆる雑誌に、AKB48は登場している」のですよね。<br> 週刊少年・青年マンガ誌は当然としても、アイドルにとっては味方とは思えない『フライデー』にも、表紙にAKB48メンバーの名前が無い号はありません。<br><br> 人気があるから、写真週刊誌もAKB48を採り上げざるをえないのだと考えていたのですが、この『タブーの正体!』によると、AKBは「スキャンダル雑誌」に、むしろ積極的に登場しているのですね。<br> スキャンダルに対する「抗議」や「隠蔽」で、自分たちの立場を守ろうとするのが、これまでのアイドルの戦略とすれば、AKBのやりかたは、たしかに斬新です。<br> いろんな雑誌に出て、「儲けさせてあげる」ことによって、「利益共同体」になる。<br> いったんそういう存在になってしまえば、いくら『フライデー』や『フラッシュ』でも、そう簡単にAKB48のスキャンダルを暴くことはできなくなります。<br> だって、それでAKBの機嫌を損ねてしまえば、これまでAKBから分配されていた「利権」を、自分たちも失ってしまうのですから。<br><br> このやりかただと、AKB側は何も「悪いこと」はしていないわけです。<br>「いろんなメディアに出てあげて、儲けさせてあげている、それの何が悪い?」<br> しかしながら、「自分たちが得ていた利益が失われること」を恐れて、メディアは、どんどんAKBに対して「自主規制」をするようになっているようです。<br> そりゃあ、もし自分がこれらのメディア側の人間だったら、「金の卵を産む鳥」を、あえて傷つけたりはしないですよね。<br><br> しかし、AKBのなかでも、スキャンダルで脱退する人もいるわけです。<br> 辞めていった人たちだけが、スキャンダルになるようなことをしたわけではなくて、事務所側も「あえて切り捨てている」のでしょうね、たぶん。<br> 実際、AKBが売れはじめてから、「主力メンバー」が、スキャンダルで脱退したケースは、いまのところありませんから。<br><br> 「脅して言いなりにさせる」よりも、こんなふうに「利益を与え、それ無しでは相手がやっていけないようにして、自主規制させる」というほうが、はるかに安全ですし、メディアもAKBもメリットが大きいやりかたです。<br> これも、AKB48のメンバーが大勢いて、いろんな雑誌に別々の人が出ることによって、マンネリ化を防げる、というのが大きいのでしょうし、売れなくなったら、いろんな問題点が噴出してくることも考えられます。<br><br> 「人気アイドルグループがたくさん露出するのは当然のことだし、それで誰かが不幸になっているの?」と問われたら、返す言葉はないんですけど、こんなふうに「情報コントロール」されているのを知ると、なんとなく搾取されているような気分にはなりますね。<br><br>
カシオの「G-SHOCK」をつくった男
2012-02-13T00:00:00+01:00
2012-02-13T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20120213
『高城剛と未来を創る10人』(高城剛著・アスキー新書)より。<br><br>(映像作家・高城剛さんの対談集。カシオのG-SHOCK開発者・伊部菊雄さんのとの対談より。1981年のG-SHOCK開発時のエピソードです)<br><br>【伊部菊雄:だけど、その時点ではメタルケースにゴムをペタペタつければ壊れないんじゃないかくらいの安易な考えていたんです。<br><br>高城剛:へえ〜そうですか。<br><br>伊部:だけど「落としても壊れない時計」ってあまりにもつかみどころのないテーマでね。はて、どこで実験しよう? と悩んで。しかも私はふだん薄型化の実験をやっていたのに、その時計は世の中に逆行するわけで。<br><br>高城:なるほど。丈夫さを追求すると、いわゆるトレンドとはまったく違う方向に行ってしまうんですね。<br><br>伊部:だから実験は目立たないところでやりたかった。あと、自由落下にこだわったんです。それで実験場所に選んだのが、トイレの窓でした。<br><br>高城:はぁ? 窓から外に時計を落とすんですか? じゃ、トイレの窓から、ひたすら時計を落とし続けたんですか?<br><br>伊部:はい。3階のトイレから(笑)。だけど実際に落としてみたらバラバラに壊れてしまって。やはりゴムをペタペタするだけじゃだめだと、でも壊れない大きさまでゴムを巻いていたらすごい大きさになってしまった。<br><br>高城:野球ボールくらいですか。<br><br>伊部:そのときはじめて「なんという無謀な提案をしてしまったんだろう」と思いました。普通のエンジニアは基礎実験をやり、先を見通してから提案するものなんでしょうけど、私は、まずつくりたいという”思い”が先にある、”思い先行型のエンジニア”のようです(笑)。そして、野球ボールのような大きさを見て、衝撃を5段階で吸収するというまったく新しい構造を考え、それで実験を行ったら劇的にサイズが小さくなった。その段階でG-SHOCKの原型サイズまでいけたんですが、電子部品がひとつだけ壊れるって現象が残っていて。しかし、その大きさをゴールにしなければ商品化にはならないだろうと思ったので、とにかく壊れてしまう電子部品を強くし始めたんですが、これがまたなかなかうまくいかない。それでもう、これは90パーセントできないと思い、最後に自分で結論を出すために、1週間期限を決めて、1日24時間使ってまるまる解決方法を考えてみようと思ったんです。<br><br>高城:ほお? 寝ている間も考えておられたんですか?<br><br>伊部:幼稚園のとき先生から「見たい夢があったら画用紙に描いて枕の下に入れなさい」と言われたのを思い出したので。たぶん、わらをもつかむ思いだったんでしょうね(笑)。それで壊れたものを枕元に置き、夢で解決策を出そうとしたんです。だけど5日目くらいで出てこないともう、お詫びのしかたを考え始めた。もう許してもらうまで頭を下げまくろう。男は黙って、みたいな形にしようと決めてね。そして最後の朝を迎えても、やはり解決策は出なかった。それが日曜日の朝だったので、休みだけど片づけに会社に行ったんですが、その途中で外にお昼を食べに行ったら、なんだか出社拒否みたいな感じになってしまってね。カシオの隣にある公園のベンチでボーっと座っていたら、目の前で子どもたちがボール遊びをしていたんです。それを「子どもさんは悩みがなくていいなー」と眺めていたら突如、そのボールのなかに時計のいちばん大事なエンジン部分が浮いているように見えた。<br><br>高城:ほお〜?<br><br>伊部:そこで、「あ、そうか。なかに浮いていれば、落としても壊れないな」と気付いたんです。これが解決策になりました。最後に衝撃を伝えなければいいので。面接触だと衝撃が伝わるけど、これが線接触だと衝撃が弱まる。さらに点接触にすれば宙づり状態に近くなる、と。<br><br><br>高城:なるほど、最後に答えが見つかったわけですね。<br><br>伊部:そうです。】<br><br>〜〜〜〜〜〜〜<br><br> G-SHOCKは、1981年に開発がはじめられ、1983年に発売されたのですが、発売当時は「薄型時計」のブームで、日本ではあまり売れなかったそうです。<br> ところが、アメリカで「衝撃に強い」ことをアピールするCM(アイスホッケーでシュートするCM)で話題になり、テレビ番組での「検証」で、ダンプカーに踏まれても大丈夫だったことで、さらに認知度が高まりました。<br> その実用性が評価されて、まずアメリカで売れ始め、日本には1990年代にアメリカのブームの「逆輸入」のような形で、日本でも売れるようになったのです。<br><br> 伊部さんは、もともと「薄型時計」を開発されていたのですが、「目先を変えて、とにかく丈夫な時計をつくる」ことを目指したのがG-SHOCK開発の契機だったのだとか。<br><br> 「薄さを極める」ことに比べれば、「大きくてもいいから、丈夫にする」ことは、そんなに難しくないような気がするのですが、薄型が主流の時代に、中途半端な丈夫さではアピールできないので、開発には予想以上の困難がありました。<br> 「最後のひとつの部品が壊れないようにする方法」が、「その部品を強くする」ことや「保護する」のではなく、「なかに浮かせて、衝撃が伝わりにくくする」というのは、思いつきそうで、なかなか難しいですよね。<br><br> 僕もG-SHOCKを持ってはいるのですが、「こんなゴテゴテした時計、邪魔だな」とも感じていました。<br> でも、値段が比較的安くて丈夫というのは、汚れる可能性があるときには、けっこう重宝するんですよね。<br> 高い時計は、もし壊れたら……と考えると、使えるシチュエーションがどうしても限られてしまいます。<br><br> いまはみんなが携帯電話を持ち歩く時代になり、腕時計には実用性よりもファッション性が求められるようになりました。<br> それでも、G-SHOCKの「機能美」には魅力がありますし、最初は「こんな重い腕時計じゃねえ」と思うのですが、使っていると、重さが安心感につながるような気もするのです。<br><br> しかし、ダンプカーに踏まれても大丈夫っていうのは、「自分が車にひかれてペチャンコになっても、G-SHOCKは普通に動いている」という、悲しい状況になる可能性もあるわけだよなあ。<br><br>
2002年1月1日。 1st
2002-01-01T00:00:00+01:00
2002-01-01T00:00:00+01:00
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20020101
この日記は、活字がないと生きていけない人間の記録です。<br>ここでの「活字」は、本のみならず、新聞・雑誌・看板の文字等も含みます。あんまりマニアックなものとは縁がないんですけどね。<br><br>今日の活字。<br>「鳥頭紀行〜くりくり編」最初の章のみ。ちょっと飽き気味?<br>「日刊スポーツ」〜カレー屋にて。正月の紙面は苦しい。<br>「年賀状」家族の写真入り年賀状多し。近年最高の32通。<br> 30歳男性の平均って何枚くらい?<br> それにしても、年賀状というのは何故か毎年予期せぬ人から来るものだ。<br><br>